「教育基本法」に見る日本の特殊性 ロナルド・ドーア 『東京新聞』時代を読む(2006.5.21)

 

 

「教育基本法」に見る日本の特殊性 ロナルド・ドーア 『東京新聞』時代を読む

 

 教育基本法のような法律は日本以外の国にあるだろうか。

 イギリスで教育が大いに政治問題になる事は大まかに二つ。英正教会設立の学校に、国公立学校と同様な予算をつける代償として教育課程や経営に国家がどれだけ関与していいかという、一世紀も戦われた問題が、ひとつ。もう一つは、義務教育において何歳から能力別の学校編成・学校内のクラス編成を始めるべきかという問題。後者は、教育機会均等の観点から、および最近の日本で騒いでいる格差社会問題の観点から、第二次大戦後の絶えざる主要論点で、新たに制度を一新しようとしているブレア政府にとって、現に頭痛の種となっている。

 しかし、英国では、読み書き算数の達成度という基本的な意味での学力以外に、教育課程が―例えば歴史教育のあり方が―政治問題になった事はない。

 日本が特殊な点は二つある。一つは教育基本法の存在自体。もう一つは、その内容が一句一句、細かく吟味されて政党間の争点になっていることで、外国から見れば、より不思議である。

 前者の説明は簡単だろう。戦前の教育制度は、戦争のための国民の精神総動員の手段であったから、新憲法をもって再出発した日本が、教育制度も完全に方向転換をするという宣言として意味があった。

その内容が熱烈な争点になることは、同じく敗戦に原因があるだろう。戦争の歴史的な意味をめぐる日教組と文部省(現在の文部科学省)・自民党の四十年戦争の名残である。明らかに日教組の負け戦になったのはすでに久しい。九〇年代において、国旗を立てて・国歌を歌う事を学校に強制した法律は、自民党の完全勝利の象徴だった。板ばさみになって苦しんで、自殺までする校長は出ても、そういう事件がわずかで、大勢が自民党の理想どおりになっていた。

 今、この四十年間の教育正常化・右傾化を進めてきた人たちの敵は、もはや「自虐的な歴史観」を普及する学者ではない。自由主義者である。自由主義者たちは「愛国心の育成」を明記しようとする動きに対して「心の自由を奪う」ことだと非難する。党内の「抵抗勢力」を処理して、近代的なイメージを作ろうとしている自民党は、今度は自制して法案には、「愛国心」という言葉を避けた。「国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し云々(うんぬん)」とした。その代わり、民主党の対案は、「日本を愛する心を涵養(かんよう)し、祖先を敬い」と、愛国心の「心」という、象徴的なキーワードをあえて使っている。

 民主党が自民党とナショナリズムの競争で対決しようとしている場面は滑稽(こっけい)といえば、滑稽だが、そのナショナリズムはたやすく恐ろしい偏狭なナショナリズムになりうる。その例として、今週も、「中国を愛し、日本を虐げる亡国政治家・官僚」を弾劾する「日本を虐げる人々」という本が出版された。

 基本法改正案の目的が、若い世代に「国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養う」ことならば、政府は行動で模範を示した方がいい。たとえば、尖閣、竹島、北方領土について、相手国に「この隣同士の摩擦の種をとにかく処理しよう。国際司法裁判所に持っていこう」と、昔一回したように提案したらどうか。日本が大人の国であることを行動で示した方が、基本法のどんなうまい美辞麗句よりも効果があるだろう。

(英ロンドン大学政治経済学院名誉客員=rdore@alinet.it