怒りの告発第2弾 「米長は私に、不倫相手への脅迫状を代筆させた!」 桐谷広人七段 『週刊現代』2006年5月27日号(2006.5.23)

 

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資料

米長邦雄氏が、東京都教育委員/日本将棋連盟会長としてふさわしくない理由

 

 

怒りの告発第2弾 「米長は私に、不倫相手への脅迫状を代筆させた!」 桐谷広人七段 『週刊現代』2006年5月27日号(2006.5.21)

 

前号で報じた桐谷広人七段(56歳)の告発が、大反響を呼んでいる。名人戦移籍騒動の“戦犯”米長邦雄会長を、「自分の婚約者まで愛人にした最低の男」と呼んだのだ。衝撃の告発第2弾をお届けする。

 

私の婚約者に一目惚れ

 

 本誌前号(5月20日号)で私は、日本将棋連盟(以下、将棋連盟)の米長邦雄会長(62歳)が私の婚約者を愛人にしてしまったことを告白しました。今回はさらに、犯罪の片棒を担がされかかった件について打ち明けようと思います。

 私が米長氏と腐れ縁になったのは、74年の秋でした。当時唯一の女流棋士だった蛸島(たこじま)彰子女流五段に将棋を教えていた私は、男性だけだった将棋界に女流名人戦を作ろうと運動していました。その時、スター棋士だった米長氏が「オレが反対派を押し切って女流名人戦を作ってやる」と豪語した。私は「実現したら20年間あなたに尽くす」という条件で協力を仰ぎました。

 米長氏は尽力したフリをして私をその気にさせ、以後、私は公私にわたって献身的に米長氏に仕えてきました。特に携帯電話などない時代に、米長氏と何人もの愛人との連絡役を務めてきたのが私です。米長氏の愛人の一人によれば、米長氏は「19歳の時に"1000人斬り"を決意し、94年の段階で582人まで到達した」と嘯(うそぶ)いていたそうですが、女グセの悪さは本当に病的でした。

 米長氏が二度にわたって私の婚約者を奪った経緯をお話ししましょう。一度目は、83年11月のことでした。私は米長氏に婚約の報告をしました。相手は同郷の広島県在住の女性です。彼女が上京した時に米長氏がしきりに「会わせろ」と言うので、千駄ヶ谷にある将棋の総本山・将棋会館で3人でランチを食べました。米長氏はご機嫌で、「これからは私の本妻とも、愛人とも、家族づきあいをしよう」と祝福してくれました。

 しかしその日の夕刻、彼女を東京駅に見送って将棋会館に戻ると、米長氏が「彼女とは結婚するな」「結婚できるか5万円(年が明けて100万円に増額した)賭けろ」などと言い出したのです。その時は思いもよりませんでしたが、彼女に一目惚れした米長氏は自分の愛人にしようとしたのでした。84年の夏頃に彼女から婚約解消を言い渡され、私は後に彼女を米長氏に取られたことを知ります。

 もう一度は88年のことでした。再び私に婚約者ができました。「明日、彼女が私の両親に挨拶に行きます」と報告すると、米長氏は「同席する」と言って聞きません。米長氏はまたも私の婚約者を愛人にしようとしたのです。さらに驚いたことに、「お前が4年前に別れた元婚約者を連れてくるから4人で会おう」と提案してきました。結局、新しい婚約者が米長氏の下心を悟ったので、私は米長氏を取るか二人目の婚約者を取るかの決断を迫られ、泣く泣く米長氏を取りました。当然ながら、再び婚約を解消せざるを得ませんでした。

 90年になって米長氏は「オレが前の男と命がけで別れさせてやったから、最初の婚約者と結婚しろ」と言ってきました。そこで彼女と久しぶりに再会したら、その女性を6年間愛人にしていた米長氏は、広島に行ってまで面倒をみるカネが惜しくなったので、私と結婚させることで彼女を東京に呼び寄せ、愛人生活を続けようとしていることが判明しました。米長氏は常々「オレは将棋界関係者の女には手を出さない」と公言していましたが、まったくのウソ八百だったのです。

 

子供への危害を示唆した脅迫状

 

 犯罪の片棒を担がされかかったことを、お話ししましょう。

 忘れもしない、91年10月29日のことです。昼過ぎに米長氏から、「すぐに将棋会館へ来い」と言われました。駆けつけると米長氏は「いまからオレの言う通りに書け」と言って、便箋とペンを渡してきたのです。

 私が代筆させられたのは、米長氏の愛人の一人に宛てた手紙でした。米長氏はその愛人と別れようと思ったのか、〈いついつまでにいくらカネを出せ〉ということを私に書かせたのです。つまり、私は脅迫状を代筆させられたのです。私に代筆させたのは、万が一先方が表沙汰にした時に、自分の筆跡ではないとシラを切るためです。米長氏は愛人に飽きてくると、途端にドケチになるのです。

 私はその日、一睡もできないほど悩みました。2日後の朝、米長氏からすぐ自宅に来るよう電話が入り、駆けつけました。米長氏は「女が絶対にマスコミに手紙を持ち込まないように彼女の息子のことを書き加えろ」と命じました。私は2時間ほどかけて「息子は夜道に気を付けたほうがいい」など脅迫を示唆する言葉を、米長氏が言うままに代筆しました。

 女グセが悪いだけではなく、愛想が尽きたら手段を選ばない。しかも自分では手を下さずに私に代役をさせる。本当に人間として最低です。

 将棋界の女性で最大の犠牲者は、林葉直子元女流名人(38歳)です。林葉は79年、11歳で福岡県の親元を離れ、米長氏の内弟子となりました。林葉が両親に伴われて米長宅に着いた日に、米長氏に代わって指導対局したのは私です。以来、彼女とは年の離れた友人になりました。

 米長氏は彼女が高校生になると「一人前になれ」と言って、東京での一人暮らしを命じました。米長氏は林葉の母親には、「(林葉が)色気づいて女房が二人の関係を疑うから家には置けなくなった」と弁明しています。実際は、自宅には明子夫人(62歳)がいるので愛人にできないというのが本当の理由だったのではないでしょうか。ところが将棋界で米長氏の最大のライバルである中原誠名人(58歳)に憧れていた林葉は、米長氏の愛人にはならなかったようなのです。

 一人暮らしに反対の林葉の父親は米長氏に5度も手紙を出しましたが、無視されました。それで林葉の父親が将棋会館に現れ、公衆の面前で米長氏を罵倒する事件が起こり、米長氏は林葉を破門にしてしまいます。しかし米長氏と訣別した林葉は女流名人・王将としてばかりか、タレントや作家としても急成長していきます。

 

米長を怒り哀れんだ林葉

 

 愛人にできなかった腹いせに、米長氏は林葉への復讐の機会を窺(うかが)っていました。

 94年5月、密かに中原氏の愛人になっていた林葉は、中原氏の子を身籠もったと勘違いして、海外で出産するため将棋連盟に休養届を出してイギリスに渡りました。直後、米長氏は将棋会館3階で開かれていた将棋連盟理事会に突然、乗り込んできました。そして「(林葉の)失踪の原因は父親との近親相姦だ。放っておくと自殺するかもしれない」と言ったのです。さらに米長氏はマスコミの知人にも片っ端から連絡し、近親相姦説や「サイババ(インド在住の自称神の化身)に会いに行くと言って消えた」などと触れて回りました。

 正式に休養届を出していたにもかかわらず、マスコミが大騒ぎしていることを知った林葉は、帰国しようとします。すると米長氏が「悪い噂を流している理事会と私が戦っているところなので、いまは帰国せず私とだけ連絡を取れ」と林葉に言い含めました。その一方で、さらに棋士やマスコミを煽(あお)ったのです。

 理事会は林葉と急に連絡が取れなくなったため、米長氏の言葉を真に受けて、林葉に150万円の罰金と約4ヵ月間の出場停止処分を下したのでした。林葉は記者会見を開きその晩私に電話で2時間近くも、「米長先生にダマされた」と悔しそうに思いをブチまけました。その後、傷心旅行に出かけ、「Y先生(米長)の事、頭にきていましたが、今は情けない人間で可哀相な人だナ、ぐらいにしか思っていません」と書いたFAXを旅先からくれました。

 98年4月に『週刊文春』が林葉と中原氏との愛人スキャンダルを報じました。この時も同誌に連載コラムを持っていた米長氏と相談の上掲載したと聞いています。米長氏は、最大のライバル・中原氏と憎き女・林葉を二人とも葬り去ろうとしたのでした。

 ちなみにこの時、米長氏の謀略を知っていたNHKの広瀬久美子アナが『週刊新潮』のコラム(98年5月27日号)に、次のように書きました。

〈林葉氏は、本来、一年間の休養だったが、千人切りを自負する、元師匠の米長氏に、"彼女は近親相姦だ"などと理事会に吹き込まれ、追放になってしまった由。何なの一体。この足の引っ張りようは〉

 米長氏は、広瀬アナが在籍していたNHKに猛烈に抗議すると同時に、女流棋士会に対して次のような私信を送りました。

NHKの女子アナが第一弾を書きました。ごく近い将来「セクハラまみれの女流棋界」という特集が週刊誌に出るのは目にみえてますので、私がNHKを通じて戦っている途中経過の報告です。女流棋士会は次のようにされたらいかがですか。

○これからは仲間(棋士・職員)の男女間のうわさを流布した者は除名処分にする

○セクハラの場合は本人の訴えのみ有効

○倫理懲罰委員会を作りそこへ訴え出ること。ただし10日以内位の期限を切る。

 私個人は色々な事情があってバッシングされております。私とのうわさを流された女流もいます。私と女流棋士とのうわさを流している者がいれば、今後は断固たる処置をとります〉

 米長氏は他人のスキャンダルは吹聴するくせに、この騒動を機に、自分のこれまでの人倫にもとるハレンチな行為を全て封印してしまおうと考えたのです。

 

狙いは将棋界の独裁者

 

 米長氏は一時期、NHK朝の連続ドラマなどに主演していた人気女優Mにもご執心でした。雑誌で対談した米長氏が一目惚れしたのだそうです。86年3月に米長氏の棋聖位就位式に呼ばれたMは、檀上で米長氏にキスしていましたが、この頃から二人は付き合い出しました。そして結婚の約束をし、二人で家まで買ったそうです。

 米長氏の愛人の中には、政治家の娘Tもいました。ある日、米長氏から私に突然、「すぐ渋谷まで出てこい」と電話がかかってきました。指定された喫茶店に行くと、「1時間後にホテルに行く女性といまからここで会うから、お前は横の席で彼女を観賞しろ」と命じられました。

「いい女」とは、某県知事の娘でした。数年前に、父親ともどもスキャンダルに見舞われた彼女をテレビで見ましたが、当時は本当に美しい女性でした。

 米長氏が一番深く付き合った愛人と言えば、79年頃から87年頃まで付き合ったIさんでしょう。Iさんは地方銀行の頭取の娘で、早稲田大学を出た才媛でした。マスコミの仕事をしていて、インタビューを受けた米長氏が一目惚れしたそうです。米長氏は高田馬場で一人暮らしするIさん宅に足繁く通い、二人は結婚すると誓い合っていました。米長氏は夫人がいるのにいい気なものですが、私もしょっちゅうIさんの家にお邪魔して、夕飯をご馳走になりました。.

 米長氏とIさんは互いに私の家に電話してデートの約束をします。そして私が明子夫人に口実を作って報告するのです。Iさんが中国出張した時など、米長氏は毎朝私の家にやってきては国際電話で愛を語り合っていました。

 Iさんは献身的に米長氏を支え、米長氏は84年に四冠(十段、棋聖、王将、棋王)を取るなど、連戦連勝でした。米長氏が全盛期を迎えられたのは、Iさんの"内助の功"です。それなのに米長氏はIさんとの結婚に踏み切れず、女優Mにのめり込んで行ったようなのです。それを知ったIさんはショックを受け、米長氏との結婚を諦めて渡米しました。

 米長氏とMの関係に、もう一人ショックを受けたのが、明子夫人です。これまで米長氏の女グセの悪さにさんざん泣かされてきた明子夫人でしたが、いよいよ精神的に参ってしまい、新興宗教に頼ったり衝動的な行為に走ったりするようになりました。それでも米長氏が平然としていたのが印象的でした。

 こんな男がいま、将棋連盟会長として名人戦の移籍騒動を起こしています。米長氏の脳裏にあるのは、将棋連盟が弱体化しようが、いかにして独裁体制を敷くかということだけなのです。

 

 

桐谷広人(きりたにひろと)/1949年広島県生まれ、師匠は升田幸三実力制第四代名人。75年四段、05年七段に昇段。97年よりフリークラス。詰め将棋や将棋の観戦記には定評がある。