あらためて、1987年沖縄 ―抵抗への応答― 『都教委情報メールニュース』2006年7月30日付より(2006.7.30)

 

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あらためて、1987年沖縄 ―抵抗への応答―

 確か一昨年だったと思いますが、あるところに書いた原稿です。福岡「日の丸・君が代」処分史から見る東京 ―東京はそんなに「ひどい」のか?の続編みたいなものです。

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あらためて、1987年沖縄 ―抵抗への応答―

 国民体育大会で「日の丸」を降ろして焼いた知花昌一さん本の中にこんな記述を見つけた。

「国体本番の中で闘いは一挙に広がった。君が代の練習に反対して指名をはずされた合唱部、国体開会式では、楽器をひざに置いたまま演奏しなかった中学生たち。また、起立しながらも唇をかんで斉唱しない女子生徒たち。彼、彼女らは、ほんとうに勇気をふるって抵抗をひろげていった。」(
1)

 国体が行われた1987年の沖縄のことだ。すでに85年には文部省による「日の丸・君が代」の実施率調査と「徹底通知」が出されていた。その主なターゲットは沖縄であり、県議会では「促進決議」があげられた。皇太子の出席する国体に向けて、「日の丸・君が代」強制と「過剰警備」が強まっていく状況。「日の丸・君が代」を考える上で87年の沖縄は非常に重要な時期だ。ところが、自分は小学校中学年の頃で当時の記憶は全くなく、一度きちんと調べたてみたいとは思っていた。また、演奏強制に対して中高生はどのように抵抗したのだろうか? そんな関心もあって、沖縄タイムスの縮刷版を1年分調べてみた(以下、[ ]内は記事の日付)。

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87年3月10日夕刊一面には「日の丸掲揚 中部3校で混乱」。読谷高校の「日の丸を揚げさせまいと、『校長先生やめて下さい』と涙ながらに日の丸にしがみつき、訴える女生徒」の写真が載っている。後に記録映画「ゆんたんざ沖縄」にも収められている場面だ。

校旗と並んで日の丸の旗が三脚に取り付けられている。生徒、教師、保護者、来賓たちが開式を待っている。そのときである、一人の少女が演壇に向かって駆け寄り、三脚に立てた日の丸を奪い、胸に抱えてうずくまったのは。教師たちが少女を囲み、「あなたが成人だったらこれは犯罪行為だよ」と叱りつける。セーラー服の少女はからだを二つに折ったまま、「いやです、いやです」と何度も声を張り上げる。そして、次の瞬間、キッと顔をあげ、教師の顔を凝視すると、「誰が賛成しましたか。生徒は賛成しましたか」と叫んだ。(中略)説得し、なだめる声にまじって教師とおぼしき大人の怒声か聞こえた次の瞬間、少女は激しく動いた。日の丸を抱え、人の渦の中から飛び出すと、旗を体育館横のどぶに突っ込んでから塀の外に投げ捨てたのである。(
2)

 読谷高校だけではない。北谷高校では、卒業生400人が「日の丸掲揚」に抗議し、会場内に入らず外で待機。学校側は掲揚を断念し、卒業生らは会場内に入り大きな拍手で喜びようやく式が始まった。中部高校では、全卒業生が「会場に日の丸があれば、舞台の菊の花を撤去して抗議の意思を表そう」と事前に申し合わせており、一人一人が菊の花を持って退場。さらに一人の卒業生が日の丸を舞台の下に放り投げた。教頭と生徒との言い合いの後、ついに卒業生が「もう式はやらなくていい」と一斉に退場。結局、掲揚は中止され、卒業式が再開された[3.10]。
那覇市の松川小学校では、父母ら約20人が「卒業式の主役は子どもです」と書いたビラを配布。卒業式では「卒業おめでとう。日の丸反対」と書いたリボンを胸に抗議の意思を示した。同じく市内の城南小学校でも、父母の代表らが「日の丸・君が代の押し付けに屈服しないで下さい」などと書いたビラを配布[3.19]。
 この頃の文部大臣は、「塩じい」こと塩川正十郎。全国市町村教育委員会連合会総会でのあいさつで「国旗・国歌を大切にする教育を積極的に進めてほしい」と要請している[6.11朝日新聞夕刊] 。
 そして、国体が近づくにつれ「君が代」の練習が問題となってくる。豊見城中学校では、練習を断った吹奏楽部の生徒が式典参加を取り消された。他の部員も一人ずつ教員から職員室に呼ばれ「演奏するか、しないか」と問われ、両親と相談して決めるよう求められたという。参加取消になった生徒は「君が代は天皇中心の歌で嫌い。国体に出られないのは残念だけれども、無理に演奏したり、吹いているふりをして出場するくらいなら出ないほうがいい」、母親は「国体に出られるかどうかの踏み絵にするのはおかしい」と話している[8.1]。この問題は、本土の新聞(朝日夕刊)でも「沖縄の中学 『君が代』拒否の吹奏楽部員 国体開会式から外す」との見出しで報じられている。

 一方、天皇来県に向けて「過剰警備」も強まっていく。市内でビラを配っていた「過剰警備110番」のメンバーが警察に拘束され、交番に強制連行されていたことが明らかになる[8.16]。そばにいたディスコのビラ配りなどは問題にならず、過剰警備批判のビラだけが狙い打ちにされたことは、最近の反戦ビラ弾圧と同様だ。そして、天皇行事につきものの「浮浪者狩り」も行われ、「精神障害の恐れがある」として精神病院に入院させられたケースが明らかにされている[9.13]。住民に対しても、警察が「子供たちにバットやボールを持たせない」「高い所から皇族を見下ろしたり、二階の窓を開けたりしない」など要請[9.28]。
 10月に入り国体まであと2週間となると、テニス競技の開会式で「君が代」合唱予定の沖縄市立山内中学校で、女子生徒たちが斉唱を拒否し合同練習がストップ。「学校が歌えと命令したら絶対に国体に出ない」などと反発[10.14]。また、浦添市の仲西中学校でもブラスバンドの生徒たちが演奏を拒否。国体事務局が父母に電話をし、演奏させるよう要請[10.22](結局、「君が代を演奏しない」姿勢を貫いたため、国体当日の演奏を取り消されたため、当日は電子オルガンでの演奏となった)。
そして迎えた国体本番。軟式テニスの開始式は中学生による君が代演奏が行われたが、口をつぐんで歌わない生徒も見られた。ソフトボールの開始式では、スーパー経営の知花昌一さんが「日の丸 引きずり下ろし焼く 関係者ショック」[10.26夕]。二日後には早くも「いやがらせ? 放火  “日の丸”事件の容疑者所有 店舗の一部焦がす」、知花さんのスーパーが放火される。[10.28夕]

 こうして見てくると、実施率が「100%」となり「自然なこと」として「定着」するまでに、いかに多くの抵抗を押さえつけ、人為的な強制が積み重ねられてきたか、あらためてその異常さを感じる。
 知花さんは、読谷高校の女子生徒の行動を受け、「日の丸・君が代」に反対する読谷村の大人たちの行為・言葉を真剣に受け止めた高校生が、「悩みながらも率直な気持ちとして表現したのがあの行為ではなかったか」感じ、大人が日の丸を降ろすという「行動で応えていかないかぎり、いくら戦争とは・・・・・・と云々しても結局は空虚な、軽いことばとしてしか映らないのではないか」と考えたと書いている。
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さて、卒業式のシーズンが近づいてきた。今年は「君が代」斉唱時の起立だけではなく、生徒への「君が代」指導が問題とされるのだろう。町田市教育委員会は、事前の指導状況を事細かにチェックし、「他の式歌と同量の声量で歌うことができるよう指導する」という通知まで出している。当時の中高生たちの思いや抵抗を単なる「歴史のひとコマ」にせず、また「沖縄の抵抗」を美化したり消費することなく・・・、日々の運動の積み重ねを通じて、自分なりに応答していきたいと思っている。

1:『焼き捨てられた日の丸 基地の島・沖縄読谷から』(知花昌一/新泉社/1988)P38より引用。3:同P26。2:『暴走する石原流「教育改革」 高校生の心が壊される』(村上義雄/岩波書店/2004)P3より引用。

生徒たちの声については『「昭和」の最後と子どもたち』(凱風社/1990)に収録されている。その他、当時の背景などは『白地に赤く 日の丸・君が代と学校現場』(朝日新聞東京社会部編/汐文社/1991)、『日の丸・君が代の戦後史』(田中伸尚/岩波新書/1999)が参考になる。
なお、87年は、国立市の運動にとっても、教職員や市民が一緒になって「ゆんたんざ沖縄」の上映運動が行われた歴史的な年。当時のチケットはスペースFに飾られている。