まだ、裁判所に残っていた良心と良識 「五十嵐仁の転成仁語」2006年9月21日付(2006.9.26)

 

http://sp.mt.tama.hosei.ac.jp/users/igajin/home2.htm

 

 

まだ、裁判所に残っていた良心と良識 「五十嵐仁の転成仁語」2006年9月21日付

 

良かったですネー、久々の快挙です。国旗と国歌をめぐる東京地裁の裁判で、原告側が勝訴しました。

 

 入学式や卒業式で日の丸に向かっての起立や君が代の斉唱を強要するのは不当だとして都の教職員が都教委を相手に起こした訴訟の判決がありました。難波孝一裁判長は、違反者を処分するとした都教委の通達や職務命令は「少数者の思想・良心の自由を侵害する」として違憲・違法と判断し、起立、斉唱の義務がないことを確認して違反者の処分を禁止したうえ、401人の原告全員に1人3万円の慰謝料を支払うよう都教委に命じました。

 この間の経緯からして、原告の人々は敗訴を覚悟していたにちがいありません。それだけに、喜びは大きかったことでしょう。

 良かったですね。お祝い申し上げます。

 

 でも、考えてみれば、このような判決は当たり前です。歌を歌わなかったとか起立しなかったということで、どうして処分されなければならないのでしょうか。

 被告の教育長は、オリンピックなどでは皆、起立しているではないかと反論していました。こんな愚か者もいるんですね。

 立ちたい人が立つのは何の問題もありません。強制したり処分したりするところに問題があるのです。オリンピックで起立せずに処分された人が1人でもいるなら、教えてもらいたいものです。

 

 問題は、処分をちらつかせて強制することにあります。人の心の中に土足で踏み込むようなことは許されないという、民主社会であるなら誰でも分かるようなことが、石原都知事と教育委員会には分からないのでしょうか。

 研修が必要なのは、このような人々でしょう。内心の自由とは何か、民主主義とは何か、研修を受けさせてみっちりと教える必要がありそうです。

 都の教育現場においては「自由と民主主義の理念」が保障されていないということが明らかにされました。そしてそれが違憲・違法であると認定されたことにも、大きな意義があります。

 

 東京地裁の難波裁判長は、この判決によって歴史に名を残したと言えるでしょう。裁判所には、まだ良心と良識が残っていたようです。

 裁判に対する信頼性を救い出し、回復させたということになります。これについても、高く評価したいと思います。

 

 

以下は、「五十嵐仁の転成仁語」(2006年9月22日付)からの抜粋です。

 

昨日のHPでの記述に対して、早速、メールによる批判が送られてきました。「自国の国旗・国歌に敬意を払うことなど世界では常識で、こんな事が裁判になるはずもない事でしょう。しかも公務員たる教師が!!」というものです。

 

 意見の異なる方にも私のHPを読んでいただいているのは嬉しい限りですが、読解力に難があるようです。何が問題なのかが、きちんと理解されていません。

 「自国の国旗・国歌に敬意を払うこと」が問題になっているのではない、ということが分かっていないようです。裁判になっているのは「こんな事」ではありません。処分をちらつかせて、それを強制することです。

 「自国の国旗・国歌に敬意を払うこと」を強制し、それに従わなければ処分するということが、「世界の常識」なのでしょうか。国歌を歌わなければ処分される、そのために立ち上がらなければ制裁を受ける、子供たちのなかで起立しない人がいると教師が罰せられるなどということが、世界のどこでもやられているのでしょうか。

 

 問われているのは「内心の自由」に対する束縛という問題です。自由社会の根幹にかかわるこの問題が問われているのだということが、どうして分からないのでしょうか。

 2004年10月28日、赤坂御苑で開かれた秋の園遊会の席上、天皇は東京都教育委員を務める棋士の米長邦雄氏が「日本中の学校で国旗を掲げ、国歌を斉唱させることが私の仕事でございます」と話しかけた際、「やはり、強制になるということではないことが望ましい」と答えました。私にメールを下さった方は、この天皇の言葉をどう考えるのでしょうか。

 今回の判決について控訴の意向を示している石原都知事や都教育長よりも、天皇の方がずっと「自由と民主主義の理念」の何たるかを理解しているようです。私もそう思います。「やはり、強制になるということではないことが望ましい」と……。