戦後史のなかの教育基本法10条と池田・ロバートソン会談 堀尾輝久著『いま、教育基本法を読む 歴史・争点・再発見』(岩波書店、2002年刊)より抜粋(2006.11.26)

 

去る11月15日に、教育基本法「改悪」の政府案が衆院で強行採決されてしまった。政府案には「教育は法律の定めるところにより行われる」との一文が追加され、このままでは、教育は「不当な支配」に屈してはならないとする教育基本法10条の精神が根絶やしされてしまう。ここでは、《戦後史のなかの教育基本法10条と池田・ロバートソン会談》に関して堀尾輝久氏の著作から抜粋し、旧文部省による教育行政が、初期の民主的で自由なものから、とくに、池田・ロバートソン会談(1953年)を契機に、一貫して、憲法・教育基本法に違反した欺瞞に満ちた非民主的で反動的なものに転換した事実を指摘しておく。

 

 

(1)教育基本法をどう読むか――逐条解説 第10条(堀尾輝久著『いま、教育基本法を読む 歴史・争点・再発見』(岩波書店、2002年刊)より

 

第一〇条(教育行政)

(1)教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきものである。

(2)教育行政は、この自覚のもとに、教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立を目標として行われなければならない。

 

 教育の自由と自律性 本条は、ある意味ではもっとも論争的な、それだけに重要な条項です。

 この条項が設けられたのも、戦前の、教育行政のあり方への深い反省に基づいています。

 帝国憲法と教育勅語のもとで、教育行政は、地方の実情を無視して中央集権化され、しかも内務行政と固く結びついて、教育行政の独自性がそこなわれていました。そこでは、警察行政と教育行政とは不即不離のものと考えられてきました。

 また、学問と教育は区別され、教育の自由と自律性の余地はなく、教師は天皇につくす官吏として、その行動も強く規制されていました。

 戦前の日本の教育の不幸は、この自由と自律性の欠落にあったのです。

 戦後改革期の文部省の法令研究会の一〇条解説の中にも、戦前の教育行政制度の問題点について次のように述べていました。

 「この制度は、地方の実情に即する教育の発達を困難ならしめるとともに、教育者の創意とくふうを阻害し、ために教育は画一的形式的に流れざるをえなかった。又この制度の精神及びこの制度は、教育行政が教育内容の面にまで立ち入った干渉をなすことを可能にし、逐には時代の政治力に服して、極端な国家主義的又は軍国主義的イデオロギーによる教育・思想・学問の統制さえ容易に行われるに至らしめた制度であった。更に地方行政は、一般内務行政の一部として、教育に関して十分な経験と理解のない内務系統の官吏によって指導せられてきたのである。このような教育行政が行われるところに、はつらつたる生命をもつ、自由自主的な教育が生まれることは極めて困難であった」(辻田・田中監修、前掲書(注=文部省、教育法令研究会編、『教育基本法の解説』、1947年))。

 本条は、このような反省に立って、教育の自律性と教育の自由を保障し、官僚統制や外部の圧力に屈することなく、教師が不断の研究と修養に基づいて、多様な教育実践を創りだすことをめざし、それを励まし、その条件をととのえる任務を持つものとして教育行政のあり方を定めたのです。

 

「不当な支配」とは この一項で、教育は不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきものである、と述べ、二項は、教育行政は、この自覚のもとに、教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立を目標として行わなければならない、となっています。一項が「教育は」という主語で、二項は「教育行政は」となっています。そして、教育のあるべき原則として「教育は不当な支配に服することなく」という文言がまず出てきます。

 「不当な支配」を何と考えるか、ということが論争点です。たとえば、文部省はこの「不当な支配」について、教員組合の不当な支配というような言い方をすることも、往々にしてあったのです。しかし少なくとも立法当時、この不当な支配として、たとえば田中耕太郎文相が説明していたことのなかには、さまざまな利益団体や教員組合も挙げられていましたが、「政府の不当な支配」ということも、その中に入れているのです。時の政府が、たとえば教育の内容に関して、くちばし入れるというようなことは不当な支配になるということが、立法趣旨の中で説明されていたのです。それは先に引用した文部省の文書からも明らかな所です。

 

 国民に対する「直接」責任 「不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って」というときの「国民全体に」とは、「教師は全体の奉仕者である」という基本法六条の規定とも対応しているのですが、ここでは、国民全体に対し、直接に責任を負うものとされています。「直接に」という文言が非常に大事な意味を持っているのです。

 ここでも、二つの解釈が対立しているのですが、従来の文部省的な解釈だと、教育というものは、教育行政の実施だというのです。そして、議会制民主主義を前提としている国家の下では、国民の意思は、まさに政府、多数派によって構成された政府の意思である。その政府が教育の内容に関していろいろ規制をし方向づけをするのは、国民の意思を代表しての行政行為であり、不当な支配ではない、と説明するわけです。

 もう一方の解釈は、教師が教育を通して、国民全体に対して直接責任を負っているのだという解釈です。教師の目の前にいるのはその地域の、一クラスの生徒なのですが、しかしそれは国民全体に対して奉仕しているという感覚で、しかも直接に奉仕しているという捉え方が大事です。したがって教師は、その地域と子どもの現実を考慮するとともに、公正で普遍的な視点を失わないように、自分の仕事を自覚しなければならないということも要請されているのです。

 直接責任を持っているという観念は教師の教育権限の自律性、独立性という原理と結びついていると、田中耕太郎は立法当時説明していましたし、その後の「国民の教育権」論の中でも、教師の教育権限の自律性の原則は、この一〇条一項から導かれるということになっています。

 そして、その教師の教育権限の独立性を保障する教育行政のあり方というものが、どうあらねばならないのかが、二項に書かれています。教育行政は、「この自覚のもとに」――というのは一項を受けています、「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきもの」だという自覚のもとに――、教育の目的を遂行するのに必要な条件の整備確立を目標として行われるのだ、というのです。

 国民の意思は代議制を通して政府によって代行されているのだという言い方があるのですが、教育に関する限り、国民の意思が直接に反映するような仕方で行われなければならないという意味も、この「直接」ということのなかには含まれています。それは、議会制を通しての政治的でしかも間接的な意思によってではなく、父母・住民の教育への直接的意思を反映させるものとして、公選制の教育委員会を予定した規定であったのです。一九四八年の教育委員会法が、この規定を受けて制定されたことからも、そのことは明らかです。この点は、あとですぐにふれます。

 

教育行政の任務 二項の「教育行政」は、一項の「教育」が「不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負」うという規定を受けて、この自覚の下で、教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立を行う、これが教育行政の任務なんだと言っている。つまり、教育行政は、条件整備をもって任務とするということがはっきりとうたわれていて、教育行政は教育が行われるその条件を整えるということに、自己の任務を限定しているのです。だから、この一〇条は、教育行政の責任と同時にその限界を定めたものだと言うことができるのです。

 

 内的事項と外的事項 このような解釈の仕方は、教育を内的事項と外的事項に区別する考え方に立っています。この考え方は、欧米の教育思想ないしは教育行政論にある考え方です。

 内的事項とは、教育の内容、教師の実践、そういうものを中核にした、いわば実質的教育の部分、外的事項は、条件整備、施設・設備の整備にかかわるものです。

 行政は外的事項を管轄するものであり、内的事項にかかわっては教師ないし教師集団がそれをつかさどる。そのつかさどる教育の中身が、内的事項ということになる。そして教育行政はもっぱら外的事項にかかわるのであり、内的事項にくちばしを入れてはいけない、という考え方になっているのです。

 アメリカ教育使節団(一九四六年)もこのような考え方に立って、行政のあり方についてこう述べていました。

 「教師の最善の能力は、自由の空気の中においてのみ花開くのであり、この空気をつくり出すことが行政官の仕事なのであって、その反対のことをすることではない」。

 そうであれば、内的事項と外的事項の関連も重要です。行政は条件整備をする、内的事項は教師の専断事項である、お互いが勝手にやればよいのだ、という関係ではありません。条件の整備は、どういう教育をやろうとしているかということと不可分にかかわっているからです。ですから、内的事項から外的事項の質・量を要求し、規定していくという関係が作られなければならない。こういう教育実践をやるためにこういう条件が必要だという要請を受けて、教育行政はそれに応えるべく条件を整備するという関係にならなければいけないのですが、現実は逆に条件の方が外堀を埋め、さらに、内容を規定し規制しているということがあるわけです。

 条件と内容の問題で別の例をあげれば、たとえばプールを作る、体育館を作る、これは行政の責任ですが、どの場所にどういう活動ができるような体育館を作るのか、という各学校での教育の方針を受けとめて、条件整備をしなくてはならないのです。給食は食堂で、という学校があってもよいのです。

 当然、その学校の教師と十分相談しながら、施設・設備を整えるというようなことがなければいけないのですが、行政の方は、ただ、とにかく体育館を作る、プールを作るということで業績を上げていくというようなことも、ままあるのです。これは内的事項を考慮せずに、外的事項が独断専行している、そして現実にはよくある事例です。

 少子化が進むなかで、より行き届いた教育を進めるために、学級規模を縮小し、早急に三〇人以下の学級をめざすといったことも、教育行政の重要な責務です。二〇人から二五人が常識である欧米の学校と比べれば、日本の教育条件の貧しさは明らかなことなのですから、地方分権法(二○○○年)以来、地方の財政負担で、二五名学級も可能にはなりましたが、貧しい地域ではなかなか困難です。こういう問題にこそ国は責任を果たすべきなのです。

 

教育内容の統制 もう一つ大きな問題は、外的事項をつかさどるべき行政が、それを越えて内側に入りこんできているという、教育内容統制の問題です。たとえば、学習指導要領に法的な拘束力を与え、教科書検定で、教育行政のあるべき任務とその限界を越えて内的事項に入りこんできている、というのが現実なのです。

 また教員の教育実践のプランを日案、週案として細かく行政に報告させる、あるいは、副教材はどういうものを使っているかを、教育委員会にいちいち報告する、そういう細かな教育行政の規制が、自主規制を促し、中身の質を規定しているというような問題があります。現実は、教師は報告書を書くことに時間をとられ、本来の教材研究ができず、教師が「ゆとり」を失っているという問題がいっそう深刻だともいえます。ベテラン教師の燃え尽き現象(バーンアウト)が拡がっている悲惨な状況にこそ、行政は改善策を講じるべきなのです。本来の教育行政は、こういう実践を行うためには、こういう条件が必要なのだという教師の教育の内容や実践についての要求に耳を貸し、条件を整えていく責務をもつものであり、教育と教育行政のこのような関係こそが、つくられるべきだと思うのです。

 そのためには学校の実情がよくわかる地方教育行政の責任は大きいのであり、そのために教育委員会法(一九四八年)では教育委員に公選制がとりいれられ、父母・住民・教師の教育条件整備にかかわる意向を直接に反映させるようにしたのです。

 また、九〇年代に入ってから高知県や長野県での先駆的なとりくみに始まり近年各地に見られる学校評議会や三者協議会、あるいは学校審議会の動きなど、父母・住民参加、さらに生徒参加の視点に注目したいものです。ただ、これらの動きに対応して出された文科省の学校評議員の制度化政策(二〇〇〇年)には、開かれた学校づくりに役立つかどうか、疑問も残ります。

 

 教科書検定は「不当な支配」か 家永教科書裁判では、現在の教科書検定が、教育行政本来の任務を超え、行うべきではないことを行っているのではないか、それは「不当な支配」に当たるのではないか、教育基本法一〇条違反ではないか、ということが争われました。

 東京地裁での杉本判決(一九七〇年七月一七日)では、現在の教科書検定は、その制度が違憲・違法とはいえないけれども、その実態を見ると明らかに憲法二一条の表現の自由を侵し、二三条の学問の自由を侵すとともに、教育基本法一〇条に違反するという判断を下しました。

 それから、一九六〇年代の初めに全国一斉学力テストが実施されましたが、これは中学二年、三年の全員に学力テストを行ったものです。この場合も、実質的には文部省が実施したのですが、文部省にはそういう権限は本来ないのです。最高裁での大法廷での判決(一九七六年五月二一日)では、文部省は全国一斉学力テストを実施する責任と権限は持たない、と言っているのです。それでは、あれは違法だったということになるはずですが、そこは、こういう説明をしました。つまり、それぞれの地方教育委員会の責任で行うということはできるのであり(これとても、問題です。私はできるとは思いませんけれども)、全国一斉に行ったのは、たまたま地方教育委員会が、その日に合わせて地方教育委員会の責任で行ったのだ。だから違法ではない。最高裁はこういう説明を加えて、違法ではないと判決しているのです。まことに奇妙な苦しい詭弁を弄しているのですが、文部省が全国一斉の学力テストをやる権限はないということを、はっきりいっていることは大きな成果でもあります。

 ことほどさようにこの一〇条は、戦後の教育にかかわる係争の問題にかかわっているのです。このこと自体、戦後の教育史においては教育の自律性を保障すべき教育行政がその任務を超えて、教育の自由の精神を踏みにじり、管理を強化してきたといえるのです。そしてその歩みが、特に一九五五年頃を境に大きく進められていき、その動きの中で、この一〇条解釈が大きな争点になってきているのです。

 この間、教育の自由と自律性こそが原理であり、そのために教育は不当な支配に屈してはならないとする基本法一〇条の精神は、その後の立法政策を通して空洞化され、さらに行政措置を通して実質的に否定されていきます。

 その経緯の中で「義務教育諸学校における教育の政治的中立の確保に関する臨時措置法」が、一九五四年、国会に警官隊を導入して強行採決されて、制定されます。これは、すでにのべましたが(本書一七四頁)基本法の措定する国家と教育の関係、そして国家権力からの独立という意味での教育の中立性の原則を大きく変え、国家は中立の保持者として、何が偏向しているかを裁く地位につく、という大転換を意味するものでした。

 しかも、この法律の一条の出だしは、「この法律は、教育基本法の精神に基き」と書かれており、「不当な支配」を「党派的勢力の不当な影響又は支配」とすることで、国家権力による不当な支配を外しています。

 そのうえ、三条で、「特定の政党等を支持させ、又はこれに反対させる教育を行うことを教唆し、又はせん動してはならない」という、日本語としてもまことに不分明な表現を持った法律を作ることによって、教育の中立性を大きくねじまげました。同時に、政治的教養の重要性を説く基本法八条にも枠をかけ、その解釈を立法の趣旨とは違う方向へ導こうとしたのです。

 この法律に対しては、国民の反対が強く、その名も臨時措置法として「当分の間、その効力を有する」とせざるをえなかったのですが、現在も「当分の間」は続いているのです。

 

 戦後教育行政の変質 もう一つは、一九五六年に教育委員会法が改正され、「地方教育行政の組織及び運営に関する法律」(地教行法)が通り、公選制の教育委員会が任命制に変わったのです。

 その変わる前の教育委員会法は、一九四八年にできました。教育基本法の精神を受けて、国民が教育に参加する、その参加の方式として、教育委員会制度が作られたのです。ですから、この教育委員会法の一条には、教育基本法一〇条の教育行政の規定がそのまま地教行法の目的規定としてくり返されていたのです。

 この全文をあげておきますと、「この法律は、教育が不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきものであるという自覚のもとに、公正な民意により、地方の実状に即した教育行政を行うために、教育委員会を設け、教育本来の目的を達成することを目的とする」とあります。こうして、教育は不当な支配に服することなく、国民に対して直接責任を負って行われるべきものであり、そのための、地域の父母・住民の教育意思を直接反映させる教育行政制度として、公選制の地方教育委員会を設置することになったのです。このような第一条を持った教育委員会法が、しかし、五六年に大改正されて任命制になったのです。

 その時、この第一条はまったく別のものになるわけで、これは教育委員会法の改正というより、廃止して新しいものを作ったという方が正確なのです。東京・中野区の教育委員会準公選問題が出てくる必然性というか、伏線にもなるわけです。その意味では中野の準公選というのは、むしろ戦後の教育行政のあり方、その精神に戻ろうという動きでもありました。それは、任命制のわく内で、選挙によって選ばれた者を任命するようにということであり、公選制の精神を任命制のもとで、実質的に生かそうとするものでした。

 これに対しても文部省は、準公選は違法だとの通達を出して、なんとかこれをやめさせようとしました。準公選は単に「準ずる」という意味ではなく、それを新しい文化的・教育的制度のあり方として、地方自治のあり方の問題提起を含めて工夫もされ、一九八○年の改正条例にもとづいて八一年から実施されたのですが、結局は九五年に廃止となりました。ですから、そこでもこの一〇条が大きな争点になっているのです。

 また近年の教科書問題としては、検定とともに、採択の権限を実質的にも教育委員会に集中する動きがありますが、一〇条の精神からすれば、教科書採択の責任は学校と教師にあるというべきです。教育委員会は、義務教育の教科書無償措置法によって、教科書の採択と配布の事務の責任を負うのであり、採択権があるとは決していえないのです。

 これらの問題を含んで、おそらく教育基本法を変えたいと思っている人たちの最大の焦点は、前文・第一条とともにこの一〇条ではなかろうかと思います。

(堀尾輝久著『いま、教育基本法を読む 歴史・争点・再発見』(岩波書店、2002年刊)、教育基本法をどう読むか――逐条解説 より)

 

 

 

(2)池田・ロバートソン会談覚書(抄)(朝日新聞、一九五三年一〇月二五日)

 

(一)日本の防衛と米国の援助

(A)日本側代表団は十分な防衛努力を完全に実現する上で次の四つの制約があることを強調した。

(ロ)政治的、社会的制約 これは憲法起草にあたって占領軍当局がとった政策に源を発する。占領八年にわたって、日本人はいかなることが起っても武器をとるべきではないとの教育を最も強く受けたのは、防衛の任に先ずつかなければならない青少年であった。

(B)会談当事者はこれらの制約を認めた上で

(ハ)会談当事者は日本国民の防衛に対する責任感を増大させるように日本の空気を助長することが最も重要であることに同意した。日本政府は教育および広報によって日本に愛国心と自衛のための自発的精神が成長するような空気を助長することに第一の責任をもつものである。

(堀尾輝久著『いま、教育基本法を読む 歴史・争点・再発見』(岩波書店、2002年刊) 巻末資料 より)

 

 

(3)戦後史の中の教育基本法――愛国心の強調

 

 戦後改革期には文部省は教育基本法を積極的に評価し、省内に設置した教育法令研究会編『教育基本法の解説』(一九四七年)を出し、さらに『新制中学新制高等学校 望ましい運営の指針』(一九四九年)でも、その精神を実現するために教師への期待を表明していました。

 教育基本法は改正すべきだ、それが日本の発展にとって足伽になっているという意見が政府筋から出てくるのが、一九五五年前後からです。・・・

 

 そしてその具体的な争点としては、たとえば清瀬文相や荒木文相などがいちばん強調していたところは、教育に対する国の責任であり、それは教育委員会制度を改変して中央から地方への教育行政ルートを確立することであり、教育内容への発言権を強め、教員組合を弱体化し教師の管理を強めることにありました。また教育目的に関しては、日本人としての自覚が足りない、愛国心の教育が足りないということです。なぜ、そこのところを強調したかといえば、直接には、対日政策を転換したアメリカの要請です。当時の自由党政調会長と米国務次官補による、いわゆる池田・ロバートソン会談(一九五三年)で、日本の再軍備化を進めるためには憲法九条と平和教育が障害になっている、愛国心教育がどうしても必要だという「覚書」が交わされます。この覚書に方向づけられて、日本の再軍備の条件づくりと結びついて日本人としての自覚、愛国心の教育が強調されてくるのです。・・・

(堀尾輝久著『いま、教育基本法を読む 歴史・争点・再発見』(岩波書店、2002年刊)、戦後史の中の教育基本法 より)