(1)【学校教育の刷新】、(2)【個人主義】:文部省著作教科書『民主主義(上・下)』(1948・1949年刊)より(2006.11.29)

 

 「日本国憲法」および「教育基本法」が施行された直後に、文部省著作教科書『民主主義(上・下)』(1948・1949年刊)が中学・高校用の社会科教科書として発行され、1953年まで使用された。そこには、戦前の国家主義・軍国主義とその無残な結末への痛切な反省とともに新しい「民主主義」実現への希望が熱く語られていた。その中から、【学校教育の刷新】および【個人主義】に関する箇所を抜粋した。半世紀以上たった現在、文部科学省と自民党政権が目指しているものは、皮肉にも、かつて自らが“熱く”語っていた「民主主義」そのものを否定し圧殺することにほかならない。

 

 

(1)【学校教育の刷新】(第十四章 民主主義の学び方、二)

 

 ・・・(略)・・・

これまでの日本の教育は、一口でいえば、「上から教えこむ」教育であり、「詰めこみ教育」であった。先生が教壇から生徒に授業をする。生徒はそれを一生けんめいで暗記して、試験を受ける。生徒の立場は概して受け身であって、自分で真理を学びとるという態度にならない。生徒が学校で勉強するのは、よい点を取るためであり、よい成績で卒業するためであって、ほんとうに学問を自分のものにするためではなかった。よい成績で卒業するのは、その方が就職につごうがよいからであり、大学で学ぼうというのも、主としてそれが立身出世のために便利だからであった。そのような受け身の教育や、手段としての勉強では、身についた学問はできない。それどころか、多くの人々は、試験が済んだり、学校を出たりすると、それまで勉強したことの大半は忘れてしまうというふうでさえあった。

 そのうえに、もっと悪いことには、これまでの日本の教育には、政府のさしずによって動かされるところが多かった。だから、自由な考え方で、自主独往の人物を作るための教育をしようとする学校や先生があっても、そういう教育方針を実現することはきわめて困難であった。しかも政府はこのような教育を通じて、特に誤った歴史教育を通じて生徒に日本を神国であると思いこませようとし、はては、学校に軍事教練を取り入れることを強制した。「長いものに巻かれろ」という封建思想は、教育者の中にも残っていたし、政府の権力は反対を許さないほどに強いものであったために、日本の教育は「上からの権威」によって思うとおりに左右されるようになり、たまたま強く学問の自由を守ろうとした学者は、つぎつぎに大学の教壇から追われてしまった。このようにして、政治によってゆがめられた教育を通じて、太平洋戦争を頂点とする日本の悲劇が着々として用意されていったのである。

 がんらい、そのときの政策が教育を支配することは、大きなまちがいのもとである。政府は、教育の発達をできるだけ援助すべきではあるが、教育の方針を政策によって動かすようなことをしてはならない。教育の目的は、真理と正義を愛し、自己の法的、社会的および政治的の任務責任もって実行していくような、りっぱな社会人を作るにある。そのような自主的精神に富んだ国民によって形作られた社会は、人々の協力によってだんだんと明るい、住みよいものとなっていくであろう。そういう国民が、国の問題を自分自身の問題として、他の人々と力を合わせてそれを解決するように努力すれば、しぜんとほんとうの民主政治が行われるであろう。制度だけが民主主義的に完備しても、それを運用する人が民主主義の精神を自分のものにしていないようでは、よい結果はけっして生まれてこない。教育の重要さは、まさにそこにある。

 ことに、政府が、教育機関を通じて国民の道徳思想をまで一つの型にはめようとするのは、最もよくないことである。今までの日本では、忠君愛国というような「縦の道徳」だけが重んぜられ、あらゆる機会にそれが国民の心に吹きこまれてきた。そのために、日本人には、何よりもたいせつな公民道徳が著しく欠けていた。

 公民道徳の根本は、人間がお互いに人間として信頼しあうことであり、自分自身が世の中の信頼に値するように人格をみがくことである。それは、自分の受け持っている立場から、いうべきことは堂々と主張すると同時に、自分のしなければならないことを、常に誠実に実行する心構えである。社会共同の生活を営むすべての個人は、それぞれその受け持つ仕事誠意もってやりとげていく責任がある。人々が、おのおのその責任を重んじ、そのうえでお互に信頼しあい、協力しあうのでなければ、民主主義の理想はとうてい実現できない。その意味で、われわれは、日本人をこれまで支配してきた「縦の道徳」の代わりに、責任と信頼とによって人々を結ぶ「横の道徳」を確立していかなければならない。・・・

 

 

(2)【個人主義】(第八章 社会生活における民主主義、三)

 

 人間を個人として尊重する立場は、個人主義である。だから、民主主義の根本精神は個人主義に立脚する。軍国主義の時代の日本の政治家や思想家たちは、民主主義を圧迫した。したがって、その根本にある個人主義を、いやしむべき利己主義であるとののしった。しかし、これほど大きなまちがいはない。個人主義は、個人こそあらゆる社会活動の単位であり、したがって、個人の完成こそいっさいの社会進歩の基礎であることを認める立場である。すべての個人が社会人としてりっぱになれば、世の中は自然とりっぱになる。個人個人の生活が向上すれば、おのずと明かるい幸福な社会が作り上げられる。ゆえに、尊重さるべきものは、「一部の人間」ではなく、ましていわんや「おのれひとり」ではなく、生きとし生ける「すべての個人」である。その考え方のどこに、いやしむべき利己主義がひそんでいるであろうか。

民主主義に反対するものは、独裁主義である。ゆえに、独裁主義は個人主義を排斥する。そうして、その代わりに、全体主義を主張する。

全体主義は、個人を尊重しないで、個人をこえた社会全体を尊重する。民族全体とか国家全体とかいうようなものを、一番尊いものと考える。・・・

 独裁者は、国民にそういうことを教えこんで、国民が犠牲をいとわないようにしむける。そうして、これは民族のためだ、国家のためだといって、「滅私奉公」の政策を強要する。その間に、戦争を計画し、戦争を準備する。戦争ほど個人の犠牲を大量に必要とするものはない。だから、戦争という大くちをやろうとする者は、国民に、国家のために命をささげるのが尊いことだと思いこませる。道徳も、宗教も、教育も、すべてそういう政策の道具につかわれる。

 全体主義者は、民主主義をけなすために、民主主義は個人主義だから、民主国家の国民は国家観念がうすく、愛国心に乏しいという。愛国心に乏しいから、いくら軍艦や飛行機をたくさん持っていても、戦争には弱いという。それがどんなに大きなまちがいであるかは、今度の戦争でよく証明された。

 民主主義者は、国家の重んずべきことを心得ている。祖国の愛すべきことを知っている。しかし、国家のためということを名として、国民の個人としての尊厳な自由や権利を踏みにじることに対しては、あくまでも反対する。国家は、社会生活の秩序を維持し、国民の幸福を増進するために必要な制度であってこそ、重んぜられるべきである。国民がともに働き、ともども助けあい、一致団結して築き上げた祖国であればこそ、愛するに値する。民主主義が最も尊ぶものは、個人生活の完成であり、すべての個人の連帯・協力によって発達して行くところの社会生活である。国家は、さような社会生活の向上・発展を保護し、促進するために存在する政治上の組織にほかならない。・・・