横浜市大のTOEFL問題・任期制問題、 《「お上」任命の経営サイドは、あくまでも大学「改革」の絶対主義的路線、「上からの道」を突っ走るのか?》 永岑三千輝氏『大学改革日誌』2006年12月11日付(2006.12.11)

 

http://eba-www.yokohama-cu.ac.jp/~kogiseminagamine/SaishinNisshi.htm

 

 

12月11日(2)―2 下記(本日日誌の(2)-1)の憲法違反・教育基本法違反・学校教育法違反の問題は、本学のTOEFL問題の審議決定のあり方・経路・手法にも関連する。

 

いったい、TOEFL500点を進級基準などと決めたのは、どの審議機関なのか?

どの審議機関がこの重大問題を検討し、しかるべき変更(基準を緩めないのか緩めるのか)を審議決定するのか。

新聞報道によれば、学部長が「「TOEFL500点は専門知識を大学で学ぶうえで出発点でしかなく、基準は緩められない。勉強方法での支援しかできない」とのべているようである。ということは、基準を緩めるか緩めないかに関して、決定権(ないし決定)に重大な責任があるのが学部長ということになる。

それでは、その学部長は、どこでその内容を審議したのか?学部教授会か? 教授会は開かれていない。

代議員会か? 学部長が主催する代議員会では、問題提起する代議員がいて議論にはなったようだがいっさい審議されていない。

個々の代議員に、教育現場に責任を持つものとして、審議すべきではないかと意見を具申しているが、これまでのところ、審議されたという報告はない。

 

学部長の上記発言内容も、現在のやり方の重大な問題性を暴露している。

TOEFL500点が、「専門知識を学ぶ上での出発点でしかない」などという認識は、勝手な一面的な考え方にしか過ぎない。どこにおいてそれは審議され決められたのか?少なくとも私は、一度もこのようなことを耳にしたことはない。審議の場で議論したことはない。

「専門知識を学ぶ上での出発点でしかない」とすれば、大学入学前にクリアしていなければならない。大学において教育されるのは、専門知識であり、たんなる一般常識ではない。

 

学校教育法にはつぎのようにある。

第五十九条〔教授会〕
大学には、重要な事項を審議するため、教授会を置かなければならない。

 

「重大な事項」とは何か? かつての学則はどうなっているか?

 

学生の半数が進級できるかどうか分からないという問題が、すなわち、社会問題として、全国的に問題になるほどの重大問題が、管理職(経営サイドから任命されたもの、その経営人を任命したのは市長)だけによって決定されていいのか?

そうした重大問題が提起されたとき、一切教授会で審議しないということが、この学校教育法の法律・法理に合致するのか? 学校教育法に則ったかつての学則に合致するのか?

 

他方で、学期末試験などでの学生のごく少数の不正行為などは、審議しなければならないと審議事項としている。代議員会はその問題では、裁判権・判定権を行使している。

学部の半数の人間が、進級できるかどうか、一年間留年せざるを得なくなるかどうか、卒業まで自動的に5年間となるのかどうか、といったことは「重大な事項」=審議事項に値しない軽い問題なのか? 進級判定、成績認定の権限は、きわめて責任の重いものではないのか? 多くの学生諸君の人生・将来・学生生活を決定し左右する重大事項ではないのか?

 

ここに(これまでの法人、学長、学部長の態度の総体に)、公立大学法人化に伴う学則改定が、いかに大学と学部の意思決定機関・審議決定過程をゆがめているかが露呈してはいないだろうか?

 

国のレベルにおける教育基本法改悪案と同じ問題(行政優位、憲法違反の下位の諸法律の優位といった問題群)、地方自治体レヴェルの立法や行政が上位の法律をゆがめ、侵害している問題性が露呈してはいないか?

 

下記、『カメリア通信』第45号によれば、事務局長として新しく大学に派遣されてきた人物は、教員評価問題に関してではあるが、次のように発言したという。

「意見のある人は,プロジェクトで発言すればよい,委員でない人は委員の人に意見を伝えればよい」と。

 

事務局長の発言は傲慢である。何もこの間の経過を勉強していないことは明確だ。教員の権限、教授会権限を剥奪する学則を制定したのは、市当局が任命した大学改革推進本部であり、大学の評議会や教授会ではなかった。

問題の委員の選任・任命に関しても、上位下達方式であり、公式の教授会(代議員会)による選出等の民主的手続きによるものではない。

 

関内(市行政当局)から大学に派遣されてきた事務局長の発言・スタンスの根本的問題をふまえた上で確認すれば(学校教育法に基づいて確認すれば)、大学において、公式に「人に意見を伝える」場は、教授会であり、代議員会である。その基礎としては、新学則上は審議機関から排除されたコース会議である。

教員から出た意見、基礎単位としてのコース会議(自治の再建のためには、それを正式の審議機関とする必要がある)で出た意見・決議を踏まえ、代議員会、教授会で審議・決議・決定することは、自治の再建であり、重要だろう。その再建こそが求められる。その再建の主体となるのは(主体たるべきは)、少なくとも全学生の進級・成績評価に関しては全教員(の教育研究)に関わる「重大な事項」として、明らかに、教員一人一人であろう。「改革」のドサクサで行政当局が押し付けてきた新学則類の不備は、学生の声と力、教員の声と力で改正していく必要があろう。

 

私の見地では、進級条件・成績評価は、大学教員が責任を持って決定すべき事項(教員集団としての教授会の責任と権限)の筆頭にある。その見地から、すでに見解は本日誌でも述べ、しかるべき対応策を関係者には伝えた(個人としての責任で)。

すなわち、プラクティカル・イングリッシュ(その現代的な重視自体は、学部とその各コースのカリキュラム体系における程よいバランスの範囲内であれば、問題ないし、その範囲内での一定の環境整備・条件整備は必要でもあり重要でもあろう)も、その成績評価(進級にあたっての位置づけや基準設定の方法)は、他の科目と同じように、学生諸個人の成熟度・達成度に応じた段階的評価(秀、優、良、可、不可)の体系とすべきである、との見地である。

これこそ、合理的合法的スタンスであり、学生の実態(各人の志向、得意、必要の多様性、その他)にも合致していると考える。成績評価における個人の尊重と民主主義的原則にも合致しているであろう。

すなわち、全学生一律の500点進級基準の強制そのもの、行政主義的統制、官僚的画一主義の見本そのものが誤っている。現場教員の意見を無視し、現実に進行する事態を無視して、「決められたこと」をオウムのように繰り返している管理職層にも問題がある。学部長のような中間管理職も、その位置に対応する重大な責任がある。ホロコースト(ユダヤ人大量虐殺―第三帝国における「いじめ」の構造)を例にとれば、ヒトラー・ヒムラーなどを頂点とするナチ体制の中で中間管理職に位置するのはたとえばアイヒマンであるが、半数にも及ぶ学生の「落第」を決定する中間管理職は、「上から」の命令に従順・忠実に従うアイヒマンに該当するであろう。

 

官僚主義的画一的成績評価とその決定の押し付けは、大学の教育のあり方(その一つが進級や成績評価のあり方)としてあるまじきことである。それは、しかるべき大学の正規の審議機関の議をふまえたものでない。制度設計と考え方、審議手順などが根本から誤っているから全国的に問題となるような事態が引き起こされた、というのが私の見地である。

 

任期制問題においてしかり。

しかし、任期制問題については、カメリア通信第45号が報じるように、何人かの昇任該当者の筋の通った態度(「権利のための闘争」)や教員組合の粘り強い交渉もあって、法人サイドではやっと理性的な修正が始まったようである。とすれば、教学に関わる事項(進級・成績評価)でも、理性的合法的な修正は可能であろう。教員の主体的能動的態度があれば。

 

それとも、かつて天皇制絶対主義の軍人・国家指導部が、無謀さを説く種々の意見を無視して、真珠湾攻撃を強行したように、「お上」任命の経営サイド→学長→副学長→学部長は、この問題では、あくまでも大学「改革」の絶対主義的路線、「上からの道」を突っ走るのか?

 

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12月11日(2)-1  現在の憲法を守るかどうか、現在の教育基本法を守るかどうかの闘いは、本学における大学「改革」のあり方、大学自治のあり方に関しても、本質的に同じ問題をめぐっての闘いとなっている。

「改革」の強行過程で、行政当局が憲法・教育基本法・学校教育法など下位の諸法律を無視ないし違反する行動をとり、それを一歩一歩改めさせる闘いとなっているからである。その点を鋭く論評したのが、次の一楽教授の団体交渉報告(カメリア通信第45号掲載)である。