野田正彰:「させられる」教育の危機、政治による支配 意欲を失う教師 『東京新聞』夕刊(2007.2.9)

 

 

野田正彰:「させられる」教育の危機、政治による支配 意欲を失う教師 『東京新聞』夕刊(2007.2.9)

 

 ひとつの社会は、時の政治権力だけによって動いているのではない。憤習、文化、文明、技術、信仰など、いずれをとっても時の政治権力の方針よりも長い時間幅をもって機能している。教育もまたそうである。

 もし時の政治権力の揺れ動く決定がそのまま総(すぺ)ての分野に伝達されるとしたら、その社会の振動は激しく、あまりにも落ち着きを欠くものとなる。むしろ時の政治権力が介入してはならない多くの分野と領域を持つ社会が、進歩と安定を調和させ、人々の生活を豊かにする。

 これは近代の歴史、とりわけ全体主義、支配的党派による独裁政治、大政翼賛会運動などによる悲惨な歴史を通して、私たちが学んできたものである。にもかかわらず小泉・安倍と続く自公政権になってから、議会多数派になれば何を決めてもよい、政治が教育を支配してもよいという、歴史の教訓を否定する動きが加速している。安倍内閣での教育基本法「改悪」、教育再生会議の設定などにその風潮はよく表れている。

 教育基本法の「改悪」は、日本教育学会歴代会長の「見解と要望」などの反対にもかかわらず、郵政民営化選挙で選ばれた小泉チルドレンらの翼賛によって可決された。教育再生会議の委員には、日本の教育学を代表するような学者は一人も選ばれていない。座長の野依良治氏は優れた化学者であっても、教育学者ではない。近現代の教育の歴史も、思想も知らなくとも、尊門委員だというのである。教育再生担当の首相補佐官と称する山谷えり子氏に至っては学校、市民運動が取り組んできたジェンダーフリーへの攻撃を政治活動の中心にしてきた程度の人である。彼らは、国家のための人材育成の教育ではなく、教育の機会を普遍化し個人を確立することによって格差の少ない社会を創(つく)っていこうとした、近代教育の理念すら分かっていない。

 

 

国家による教育の支配を支えているのは、「させる教育論」の蔓延(まんえん)である。企業経営者、政治家、文部科学省や教育委員会の役人などいずれの人も、自分が教えていないのに、教師に「させる」と主張している。自分も子どもだった、教育を受けてきたので、教育について語れると思い込んでいる。子育てをしてきたので教育について語れると思っているようだ。

 しかし教育は「する」ものであって、「させられる」ものではない。個々の家族が子どもを産め、このように子育てをしろと命じられて、そうできるものだろうか。同じく政治が教育の内容を決め、文科省、教育委員会、そして校長のラインで教師に命じる。中央集権、上から下への命令伝達を願望する教育論の下で、教師たちが仕事に生きがいを持てるはずがないではないか。

 教育基本法第一条にある教育の目的、人格の完成をめざす教育は、子どもと教師、子どもと子どもの直接的交流から創られる。そのためには思想、心情が気にくわなくとも、子どもと表裏なく本気で付きあってくれる教師を尊敬し、支援しなければならない。完全な夫、完全な妻でないと言って、家族再生会議を作り、夫や妻のバウチャー制を求める者がいるだろうか。

 教師と子どもの自由な交流を許さない教育行政によって、教師の疲労感は増大し、教育への意欲は低下している。二〇〇三年から「君が代」斉唱などを強制してきた東京都を見ると、前年(〇二年)の病気休職者は二百九十九人なのに、翌年より急増し、〇五年には五百四十七人と約二倍になっている。しかも、そのほとんどはうつ病による休職である。教師の生きる力を低下させておいて、学校教育を外から刺激痙撃(けいれん)させている現状を、この数字はよく伝える。

 

 

 憲法一九条に定められた思想及び良心の自由への抑圧は、子どもとの人間関係に生きる教師にとって、とりわけ苦痛である。強制される苦痛が意識されている限り、加害者への怒りを持ち得る。だが次第に苦痛は内攻し、抑圧された葛藤(かっとう)に変わる。さらに進むと感情鈍麻になる。その前にさせられる教育からくる苦痛を、教育危機の信号として受けとめねばならない。

 

のだ・まさあき=関西学院大教授、評論家1944年、高知県生まれ。北海道大医学部卒。専門は精神医学。著書に『戦争と罪責』『国家に病む人びと』『なぜ怒らないのか』など。