【抜粋】『悪夢のサイクル ネオリベラリズム循環』(内橋克人著、文藝春秋、2006年10月刊)(2007.2.15)

 

 

【抜粋】『悪夢のサイクル ネオリベラリズム循環』(内橋克人著、文藝春秋、2006年10月刊)(2007.2.15)

 

 

目次

プロローグ

第一章 未来は見通せていた

第二章 なぜ私たちはルール変更を受けいれたのか

第三章 市場原理主義の起源

第四章 悪夢のサイクル

第五章 日本のシカゴ・ボーイズ

第六章 バブル再考

第七章 戦争との親和性

第八章 人間が市場を

主要参考文献

 

 

プロローグ

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一九七〇年代、所得階層の上位二〇パーセント総所得と下位二〇パーセントのそれとを比較したときその差は約一〇倍にすぎませんでした。ところが一九八○年代の後半にはそれが二〇倍になって、二〇〇〇年代の現在はどうかというと、一六八倍にもなっています(厚生労働省データより計算)。政府は、この拡大は主に高齢化によって所得がゼロである年金生活者が増えたためと説明していますが、それだけの要因で、ここまで拡大するものでしょうか。

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 「OECDワーキングレポート22」では、OECD諸国における貧困率の平均が一〇・四パーセントであるのに対して、日本のそれが一五・三パーセント、メキシコ、アメリカなどについで、加盟国中ワースト5の数値であると報告しています。先進国だけに絞(しぼ)れば、アメリカについで、ワースト2であるともいいます。

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 なぜ、このようなことになってしまったのでしょうか。

 二〇〇六年に入って、新聞、テレビなどの各マスコミや書籍などで、「格差社会」の現状について、さまざまな報道がなされるようになりました。しかし、そのほとんどの報道、書籍が、現状を報告するだけのものです。

むろん現状を報告することにも意味はあります。しかし、人間はくりかえし「現実」を見せられると、その「現実」が所与(しょよ)のもの、つまり変えようのないものとして受容していってしまうのです。

はたしてそうでしょうか。

「現実」は変えられるのです。

 まず、どうして今日のような杜会の姿になっていったのかは、「しかたがなかった」というようなものではありません。一九七〇年代以降に、あなたの気がつかないうちにさまざまな政策の変更がなされていったのです。その結果としての「現実」なのです。

この本では、こうした「格差」がいったいどこから来たものなのかを、わかりやすく説明します。

それは、一九六〇年代、アメリカの傍流(ぼうりゅう)の経済学者の頭の中で生まれました。ナチスの迫害を逃(のが)れた家系に生まれたその経済学者の思想が、やがてアメリカの政権の中枢部に達し、七〇年代の後半からアメリカでその実験が始まります。同時に、アメリカの裏庭ともいえる南米の国々でも実験が始まりました。なかでも、アメリカのCIAの協力によって成立したチリの軍事政権によって、極端な形での実験がくり広げられました。

 やがて日本にも八○年代後半にそれはやってきます。「内需拡大」「内外価格差是正」「規制緩和(きせいかんわ)」「努力が報(むく)われる社会」「構造改革」……そのときどきにキャッチフレーズを変えながら、それはやってきたのです。多くの人々がその政策変更の本当に意味するところを知らないままに、政策は変更されていったのです。

 そうした政策の変更がたやすくできるようなしかけも、選挙制度に組み入れられます。

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第四章 悪夢のサイクル

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 チリ、アルゼンチン、あるいはタイなどの例を見ても明らかなように、新自由主義政策による資本移動の自由化と金融規制の緩和は、海外からの資本流入による一時的な活況を生みます。

しかし、実体経済の強さを伴(ともな)わないバブル的好況は、多くの場合、経済の実態以上の通貨価値の上昇につながります。

 そこを狙ってヘッジファンドなどの投機資金が集まり、その国の通貨の「空売り」等を仕掛けて通貨の暴落を演出し、その結果、それまで流入してきた大量の資金が一気に国外に逃避、バブルは崩壊し、実体経済を道連れにして国家経済を破綻(はたん)させてしまうのです。

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 新自由主義政策が必然的に呼び込むこうした景気循環を、佐野誠教授は「新自由主義(ネオリベラリズム)サイクル」と命名しました。

 これは市場が小さく国内資本の蓄積が十分でない発展途上国が新自由主義路線を取った場合に必ず陥る経済浮沈のサイクルですが、ケインズが市場の構造的欠陥として指摘したように、需要―消費と、供給―生産の相関関係による次のような循環、

 

 好景気→消費過剰→インフレ→生産増強→供給過剰→デフレ→不況

 

 すなわち一定のサイクルで需給調整が起きるという、一般的な意味での景気循環とは異なるものです。

 つまり自由化によって、海外からの資金が集まりバブルが起きるのです。このバブル経済がくせもので、企業だけでなく自治体も国も借金をしまくるわけです。経済が膨張していますから、借金をしても、すぐに返せると考え、財政規律がゆるみます。そして、バブルがはじけます。このとき、資本はいっせいに海外に逃避し、国、自治体、銀行、企業は一挙に不良債権をかかえます。そしてリストラを始めるのです。このときに、さまざまな規制緩和などの「改革」がまたなされます。そして国や自治体、その国の企業の価値が、安く評価されているときをねらって、一気に海外資金がなだれこむ、この繰り返しが果てもなく続くということなのです。

 その過程で何が起こるでしょうか。アルゼンチンで起こったのは、アルゼンチンの企業や国営事業が外資によって支配されていったことです。その過程のなかで、貧富の差は拡大し、国土は疲弊(ひへい)し、人心は荒廃します。

 ここまで書けばみなさんはもう気がついたでしょう。

 一九八六年から始まったバブルと、国、自治体、企業をあげての借金競争、そしてバブルの破綻による、自治体、企業、金融機関の不良債権の山、それを整理すると称しての「規制緩和」「自由化」という「改革」。そのすえの弱小企業の淘汰、雇用の喪失、貧富の差の拡大、外資の進出……。

 日本は、ネオリベラリズム・サイクルがちょうど一巡しようとしているところなのです。

ライブドア事件の直前、二〇〇五年ぐらいから起こり始めた東京の地価と株価の上昇は、いったんこわされた日本が割安だとして、再び資金が流入してきたことを意味していたのです。

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日本経済の場合

 もともと経済の動きにはサイクルがあって、上がれば下がるものです。その上下動は、何の規制も加えなければ、健全な雇用や生産活動を破壊してしまうほど激しいものになり、多くの悲劇を生みます。私の目にはネオリベラリスト=市場原理主義者たちは、それに気づいていないか意図的に無視しているとしか思えません。

 日本にチリやアルゼンチンの教訓を当てはめた場合、これから日本はどうなるのか。

 この「ネオリベラリズム政策によって生じる循環」という視点で見た場合には、かつての日本のバブルとその崩壊、そして「失われた十年」がなぜ起きたかという謎、そして今また日本がもう一度、バブルと「失われた十年」を繰り返そうとしているということが明らかになってきます。

 新自由主義者たちに言われるまま市場経済に任せている限り、今、資本の流入で一時的に景気が上がっていたとしても、その流出とともに必ず景気も落ちてゆく。バブルと同じで、規制が少ないほど上がり方が大きくなり、上がり方が大きいほど落ち方も大きくなる。そして落ちてゆくときには、それが実体経済と人々の生活に大きな被害を与えてしまいます。

 日本も放置すればそうなるだろうと予測されるわけです。

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第六章 バブル再考

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 バブルの崩壊は日本社会を滅茶苦茶にしました。

 経済が成り立ってきた枠組み、柱、階段、梯子(はしご)といったものが全部、国民の目の前で崩れていきました。

 このバブルが崩壊した九二〜九五年の間に何が言われたかというと、「要するに規制があったから、日本型資本主義だったからこういうことになったのだ」といった理屈でした。そういう意見がマスコミに溢れたのです。

 「日本型資本主義だから不況になった」という規制元凶論が燎原の火のごとく広まって、「だから規制を取り払って、新しい生活者主権の社会をつくらなければいけないのだ」というような種類の大合唱が起きた。

 その生活のために働いているごく普通の人々を保護するためのさまざまな「規制」が、経済・市場の流れを阻害しているのだ、そのために「日本人は豊かになれないのだ」と、不況の原因をすり替えたのです。

 規制があるがゆえの土地投機であり地上げであり、土地担保型の経済がいけないとか、「ぬるま湯につかった日本人の悪平等主義」がいけないとか、意思決定を早くするために小選挙区制を導入しようという、それが規制緩和の論理だったのです。

 今振り返ってみれば、本質は全然、違っていたわけです。

 日本のバブルの崩壊は、要するに第四章「悪夢のサイクル」で明らかにしてきたように、まさに「マネー」が逃げていった結果にすぎないのです。

 それからの一六年は、再びマネーがもどってくるための環境整備の一六年です。より自由に、マネーが動きまわれるように、「規制」をどんどんはずしていった過程でした。

 その間に進んだ外資の進出、ハゲタカファンドの進出、日本企業の外資化は、「マネー」が再びかえってきたことを意味します。

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