憲法改正是か非か(一九五六) 『戦後昭和史』(木下航二著、六興出版部、1959年刊)より抜粋(2007.4.15)

 

 

憲法改正是か非か(一九五六) 『戦後昭和史』(木下航二著、六興出版部、1959年刊)より抜粋(2007.4.15)

 

 

憲法改正の準備進む

 

 第二十四国会は二大政党の決戦場であった、左右両派社会党は五五年十月十三日、四年ぶりで統一した。民主党と自由党も十一月十四日に合同。鳩山氏を総裁とする自由民主党を結成し、直ちに総辞職して旧自由党閣僚を加えた第三次鳩山内閣が組閣された(十一月二十二日)。第三次鳩山内閣は憲法改正を重要な公約の一つにかかげ、ここに憲法改正問題をめぐってわが国はじめて有力な二大政党が、保守、革新に分れて対決することになったのである。

 二大政党の衝突は、五六年のはじめにおこった。それは自民党の提出した小選挙区法案、新教育委員会法案、憲法調査会法案等の審議をめぐってであったが、その前に冒頭の施政方針演説が早くも波乱のたねになった。鳩山首相は施政方針演説に対する社会党佐多忠隆氏の質問に答えてこんなことをいった。

 「私としては日本が陸軍をもたない、海軍をもたない、飛行機をもたないというその憲法には反対なのであります。日本自身は軍隊をもつ方がいいと思うのであります。」

 この重大な失言が当然社会党にはげしく攻撃され、鳩山首相は陳謝しなければならなかった(一月三十一日参院本会議)。ところがさらに二月二十九日には、鳩山首相がふたたび、「自衛のため敵基地を侵略できる。侵賂とは攻撃のことである」

 と大変な失言をくりかえし(参院予算委員会、社会党戸叶武氏への答弁)、首相引退勧告決議案まで出されるというさわぎになった。これらを通じてはしなくも鳩山首相の本心がはっきりとあらわれ、自社激突の前ぶれとなったのである。

 例の重要法案は、予算案に手間どったためにすべて五月十日から六月三日までの延長国会にもちこまれることになった。その中の憲法調査会法というのは、いままで自由党の憲法調査会とか民主党の憲法調査会というように保守党がそれぞれやってきたものを、今度は内閣に直属させようとしたもので、「日本国憲法に検討を加える」とうたってあるが、もちろん憲法改正案を起草するための機関であった。この審議をめぐり内閣委員会では憲法担当清瀬文相の失言(現憲法はマッカーサー憲法だと考える、などといった)が続出して大荒れに荒れたが、五月十六日にこの法案を強引に成立させた。

 ついで小選挙区法案(公職選挙法改正案)が上程されたが、これは現在中選挙区制である衆院選挙区を、原則として一人一区の小選挙区に改めるというもので、組織票にたよる革新系候補者を不利にし、顔や地盤にたよる保守系候補者を有利にするものであった。そしてこれは前年の衆院選挙で保守系が三分の二を確保出来なかったことにかんがみ、次の総選挙では小選挙区制で一挙に衆院の三分の二以上を獲得して憲法改正発議の態勢を作ろうというねらいをもっていたもので、世論の批判も強かった。

 この法案をめぐって社会党はダラダラ演説、牛歩戦術、不信任案提出等、必死の引きのばし戦術をとれば自民党も「暁の本会議」などでそれを封ずるあらゆる作戦をとり、五月十六日にようやく衆院を通したが、参議院ではその頃新教育委員会法の攻防が大詰めにきていたので、小選挙区法の方は犠牲になり、ついに審議未了となったのであった。

 最後に最もはげしい衝突をひきおこしたのが新教育委員会法(地方教育行政の組織及び運営に関する法律)であった。これは戦後の教育民主化の中心であった教育委員会の公選制を廃止して知事の任命制にきりかえようとするもので、実質的には教育委員会を骨ぬきにし、教育の中央集権化をはかるねらいをもっていた。既に「山口日記」問題や「うれうべき教科書問題」(一九五五年八月、民主党の出したパンフレット)以来、教育への干渉が露骨になりつつあったが、新教委法は憲法改正、再軍備体制への地ならしとして重要な一歩を進めるものであり、次に来る勤評問題にまっすぐつながってゆくものであった。

 この新教育委員会法が上程されるや、日教組と革新政党の全力をあげての闘争となったことはもちろん、文化人や教育団体からの反対も猛烈をきわめ、中でも三月十九日の学長声明は最も注目されたものであった。それは、矢内原東大総長、南原東大元総長をはじめ、学芸大木下一雄、法政大大内兵衛、早大大浜信泉、学習院大安倍能成、東工大内田俊一、お茶の水大蝋山政道、一橋(元学長)上原専禄、慶大教授(元文理大学長)務台理作の十学長の共同声明で、「教育に対する国家統制復活の傾向がある」として政府と世論に訴えたものであった。これは大きな反響をよび、関西の滝川幸辰京大総長以下十三学長がこれに同調する声明を発表し、続いて上原専禄教授ら六一七教授の署名による声明も行われた。政府は単に社会党を敵とするだけでなく、こうした「良識」をも敵としなければならなかった。

 国会は参議院議員の任期が切れる関係で、六月三日より先へはもう延ばすことが出来なかった。六月三日が近づくと大詰めの参議院は新教委法をめぐって緊迫し、審議未了をねらって引きのばしをはかる社会党を、院外では連日の日教組のデモが激励し、警視庁予備隊は装甲車をくり出して国会の周辺をものものしくとりまいていた。この時の情景は石川達三の「人間の壁」によく描かれている。

 そしてあと一日で審議未了という六月二日の午前二時五十分、ついに松野議長は警官隊の出動を要請し、警官隊に守られながら議事を進めて、同夜ぎりぎりに新教委法を可決成立させたのであった。

 

逆コースの改正案

 

 参議院議員選挙は注目のうちに七月八日に行なわれることになっていた。憲法第九六条には「この憲法の改正は、各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会がこれを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない」となっている。ところが衆議院は解散ができるが、参議院は三年おきに半数改選になるだけで、解散ということがない。従って今度の選挙で自民党が参院の三分の二を確保することができれば、衆院は小選挙区法を通した上で解散なり何なりで総選挙をやり、両院ともに三分の二をそろえる可能性が出てくる。それがもしこの選挙で三分の二とれなければ、すくなくとも次の選挙までの三年間はどうしても憲法改正はできないし、その間には鳩山内閣自体の運命もどうなるかわからないわけで、どうしてもこの参院選挙が憲法改正の決戦場にならざるをえないわけであった。

 

 憲法改正というのは一体何をどのように改正しようというのか。それは既に一九五四年から各保守党の間にいろいろな構想が出ているところであり、主なものでも自由党案(五四年)、改進党案(同)、緑風会案(五五年)、自主憲法期成議員同盟広瀬試案(同)、自由民主党案(五六年)等がある。これらの中で最も代表的なものであり、その後のいろいろの案のもとになっているのが自由党案、すなわち、岸信介を会長とした自由党憲法調査会が一九五四年に発表した憲法改正案であった。その主な改正点は次の五つである。

 

(1)天皇について、天皇を「元首」とすること。天皇の行為を拡大しとくに緊急命令を加えること。

(2)国防について、最小限の「軍隊」をもてるとすること。

(3)人権について、人権は法律によって制限しうる、とすること。

(4)家族関係について、子の親に対する「孝養の義務」をきめること。

(5)国民の基本的義務について、「国防の義務」及び遵法の義務、国家に対する忠誠の義務を規定すること。

 

 一見してわかるように非常に明治憲法的な、復古的なにおいの強いものであった。こうした保守的な改正案が世論の攻撃をあびると、のちの試案ではだんだん表現をぼかすようになってくるが、しかし、一番新しい当の自民党案にしても、本質は先の自由党案と全く変りなかった。もちろん憲法改正論がそもそもおこってきたのは、再軍備を可能にするためであったから、どの案も軍備についてはとくに強調し、自民党案でも「自衛のために必要な最小限度の軍備は保持できる」とされていた。

 

ゆさぶられる鳩山内閣

 

革新政党や労働組合、それに憲法擁護国民連合(議長片山哲)等の団体が憲法改悪反対を叫んで運動を展開し、宮沢俊義、吾妻栄らの、法律学者もそれぞれの研究の上にたって憲法擁護論を述べていた。

 七月八日、参院選挙の結果は、自民一二二、社会八○、緑風会三一、共産二、無所属・諸派一五(うち革新系四)、合計二五〇となり、革新系を合わせると八六名。三分の一は八三名だから、それを辛うじて三名うわまわり、まことにきわどいところで憲法改正は阻止されたのであった。

 ここに鳩山内閣はほぼ命脈つきた形でやがて鳩山一郎は引退し、保守党はその後憲法改正を公然とは口にしなくなった。しかしそれは保守党の底を流れる底流となって、またいつふき出すかわからないのであった。・・・

 

(著者略歴)

東京生まれ。東京府立一中(今の日比谷高校)、第一高等学校を経て、昭和二十五年東京大学文学部を卒業、都立日比谷高校教諭として社会科社会を担任、現在に至る。趣味は音楽、昭和二十九年「原爆許すまじ」、昭和三十年「しあわせの歌」などの歌を作曲した。