ワイセツ首長のハレンチ連続追及第4弾 ”憤死”横浜・高秀秀信前市長の未亡人美智子さん・71歳が激白「夫は『指入れ合コン』中田宏に殺された」 『週刊現代2007年12月8日号』

 

 

ワイセツ首長のハレンチ連続追及第4弾 ”憤死”横浜・高秀秀信前市長の未亡人美智子さん・71歳が激白「夫は『指入れ合コン』中田宏に殺された」 『週刊現代2007年12月8日号』

 

本誌を刑事告訴、民事で提訴、出版差し止めの仮処分の見苦しさ

 

「政治のすべてを教えてください」と門を叩いた白面の青年は、長女をデートに誘うなどして家族同然の付き合いに。実力者だった前市長の人脈、権力を巧妙に奪いとった彼は市長選に臨む際「あなたはもう私には勝てない」「選挙に出ないからカネをくれ」と豹変、まるで詐欺師のように恩師を裏切った。それからほどなく市長は病に倒れ、亡くなった――

本誌記者 佐々野慎一郎

 

 

"クリーン"の仮面に苦しめられつづけた12年

 

「中田さんを再び国政に出すのは危険なこと」

 

 「夫は中田宏に殺されました。中田さんは詐せません。ただ、いまさら私があれこれ言っても恨み節にとられるだけです。みなさんは夫と中田さんの関係はご存じないだろうし、夫が中田さんに市長選で敗れたのは事実なのですから。恨み節には思われたくないし、言いたくもない。ですからいままで黙ってきたんです。でも、このままだと中田さんは横浜市を踏み台にして再び国政に出て行く。それは大問題だし、危険なことです。だからお話しすることにしたんです」

 こう語るのは故・高秀秀信(たかひでひでのぶ)・前横浜市長(享年73)の妻の美智子さん(71歳)だ。

 高秀氏は建設省の官僚として事務次官まで務めた後、90年に横浜市長に初当選。その後、3期12年にわたって市長職を務めたが、02年、4選目の選挙で衆院議員から転じた中田宏・現横浜市長(43歳)に敗れた。そして、選挙のわずか5ヵ月後、高秀氏は食道静脈瘤破裂で急逝した。

 高秀氏と中田氏の関係は深い。90年、高秀氏の初当選時、中田氏はボランティアとしてその選挙活動を支えた。その後も衆院議員となった中田氏に、高秀氏は人脈を与え、政治のノウハウを教え続けた。高秀氏はいわば、政界における中田氏の師匠なのである。一度は市長の座を争ったとはいえ、なぜ高秀夫人は"弟子"を告発するのか。

 合コンの席上で女子学生の性器に指を入れたワイセツ行為、「田岡一雄・山口組三代目を尊敬している」と公言する中田氏の有力支援者の公金横領疑惑、海外公務を放棄してのキャバクラ遊びなど、中田市長のハレンチな行状を本誌は過去3回にわたって暴いてきた。これに対して中田市長側は11月4日、本誌を「刑事告訴した」と発表。同22日には「名誉段損で提訴した」という(11月22日には東京地裁に出版差し止めの仮処分申請をした)。これらが茶番であることは、以下の高秀夫人の言葉から明らかになるだろう。

 

 * *

 

夫人 夫と中田さんが最初に出会ったのは、夫が市長選に初出馬した90年。松下政経塾の塾長さんから、「選挙活動を勉強したいという塾生がいる。使ってみてくれないか」と依頼があり、引き受けたのが、大学を卒業したばかりの彼でした。

 彼は爽やかな好青年でしたよ。事務所のスタッフの中でも輝いていました。今と違って、顔つきも爽やかでした。「こんにちは! よろしくお願いします! 僕はゴミ問題のスペシャリストになりたいです」と初々(ういうい)しく挨拶したことを覚えています。

 当時の彼はひどく貧乏でしたよ。安い、ボロボロのスーツを着てウチに来ていました。私は大変だろうと思って、ご飯を作ってあげたり、お風呂にも入れてやったり……。

 そんな関係の中で、中田さんがウチの娘をデートに誘うようになったんです。どこに行ったのかは知りませんが、娘は当時、大学に入ったばかり。政治の世界が新鮮だったのでしょう。娘が本気だったはずはありませんが、彼は女好きだし、今にして思えば、高秀家に取り入ろうとする狙いもあったのだと思います。

 しかし、家族の一員のように振るまう中田さんを夫はとても可愛がって、「勉強させてやれ」と言っては資料を渡したり、直接講義をしたりもしていました。常識も何も知らないコでしたが、まっすぐなコだという印象はありました。

 

 92年、中田氏は日本新党の立ち上げに参画。小池百合子氏の秘書となる一方、その年のうちに細川護熙代表の秘書と結婚している。翌93年、日本新党ブームに乗って衆院選に立侯補。初当選を果たしているが、この間、さまざまな形でバックアップしたのが高秀氏だった。高秀氏の元側近が語る。

 「高秀さんは『中田君が国政に出るのでスポンサーを紹介してやろう』と張り切っていました。元建設事務次官で、建設業界に顔が利くから、ゼネコンの上のほうに電話などをして中田氏のために動いた。彼はずいぶん助けられたはずです。

 また、高秀さんの地盤は、青葉区内でしたが、中田氏もたまたま青葉区の出身。高秀さんは、青葉区内の自分の有力な支援者たちを中田氏に紹介してあげていました。そのまま票田を渡すということまでしてあげたんですよ」

 94年、高秀氏は2期目の選挙に出馬する。前年衆院議員となった中田氏は驚くべき行動に出た。

 

「政治家として潰れてもらいたい」

 

夫人 中田さんは事前に夫に何の説明もなく、夫の対立候補の応援に回りました。もちろん、対立候補を応援すること自体を批判しているわけではありません。"縁"よりも政策を優先することはあるのでしょうから。ただ、彼のやり方は決して許せません。"高秀の名代"のような顔をして夫の地盤を回り、その上で、対抗馬の名を出して「よろしくお願いします」と票集めをしたんです。そもそも自分が夫からもらった票田ですよ。信義に惇(もと)るのではないでしょうか。中田さんはいま「クリーンな政治家」などと言われていますが、納得できませんね。

 幸いにして94年の選挙は勝つことができました。すると中田さんは、周囲のすすめもあり、夫にしぶしぶ詫びを入れにきたといいます。そのくせ市長室で中田さんは、夫に土下座までしたそうです。

 この一件以降、中田さんと夫に溝ができました。夫は怒っていましたし、中田さんも、ウチにピタッと来なくなりましたから。でも、夫の中ではどこかまだ、彼のことが可愛かったのでしょう。中田さんは市役所には頻繁に出入りしていたみたいです。

 

 それから8年後の02年、中田氏は、無所属で横浜市長選への出馬を表明する。彼は高秀氏にこんな"宣戦布告"をした。「見識を持たないトップを持つことは(横浜市民にとって)残念なこと」「(高秀氏は)疑惑の人々が属した政党(当時、秘書給与問題で国会は揺れていた)がこぞって応援する相乗り候補」「敵(高秀氏)は利益、利権を守るため、徹底してやってきます」。政策での勝負というより、恩師の人格批判である。

 

夫人 中田さんの市長選出馬を聞いて呆然とし、「もう高秀は完全に不要になった、邪魔になった」というメッセージだと感じましたね。そのころ、彼は、小泉さん(純一郎元首相)と親しかった。小泉さんという後ろ盾があれば怖いものはない、と考えたのでしょう。

 選挙の前、2月ごろ、中田さんが夫に会いに来たことがありました。彼は、夫にこう言ったそうです。

 「市長選降りてあげるから、(カネを)いくら積みます? このままいったら、オレ、勝ちますよ。もう1期やらせてあげるから、次は君だとオレを指名して辞めてください」

 腹が立ちましたね。夫も今度は許さなかった。夫は当時70歳を過ぎて高齢で、引退を勧める声もあったそうです。でも、「自分が招致したサッカーW杯(決勝が横浜で行われた)を中田にやらせるわけにはいかない」と、出馬を決めたんです。

 "小泉旋風"をバックに自信満々の出馬をした中田氏。選挙戦は「官僚上がり」「多選」「高齢」の高秀秀信VS.「市民派」「草の根選挙」「若い」中田宏という構図が描かれた。しかし、投票1週間前に出た世論調査では、高秀氏が10ポイントも中田氏をリードしたのだ。中田氏は思いもよらぬ挽回策に出たという。

 

夫人 選挙戦の終盤、何度も身の危険を感じました。中田が雇ったとしか思われない"勝手連"と呼ばれる選挙妨害のプロが、こちらの活動を妨害し始めたんです。夫は彼らの存在を知って以降、お天気の日でも防護用に傘を持ち歩くようになりました。

 たとえば、街頭演説中、健常者なのに車椅子に乗り、最前列に並んで、とんでもない野次などを飛ばすんです。とても恐ろしい。また、選挙戦最終日、横浜駅前で演説したときのことです。主人の演説を聞こうと、私と娘がワゴン車から降りようとしたとき、スタッフが「降りないでください!」と叫んだんです。ちょうどそのとき、中田さんが主人のあとに同じ場所で演説をするため待機していたのですが、そこにいた一見しておかしい人たちが、私めがけて、突進してきたんです。みんなハチマキを巻いて殺気に満ちた形相で駆け寄ってきたんです。このときは事務所の人が危険を察して、急いでドアを閉めたので、事なきをえましたがすごく怖かったです。

 また、世論調査でリードが伝えられた翌日、中田さんが「挑戦状」を持って事務所に乗り込んできたのですが、あの選挙で私が一番イヤだった出来事です。事務所の人から「いま中田がきてゴタゴタしてるから事務所に来てはいけません!」と連絡してきた。私の身が危ないと思ったんでしょう。

 

 夫人の語った"勝手連"なる集団が、中田氏の雇ったものかどうかは定かでない。また、この「挑戦状」とは前ぺージに掲載したものだ。夕刊紙記者が背景を語る。

 「あの挑戦状は事前に中田から『いまから行く。カメラを動員してくれ』との連絡がありました。中田から積極的に高秀ネタを流してもらいました。『多選によって地元企業との癒着が強くなる。高秀はカネに汚い』とか、『セネコンとパイプの太い高秀と若くてクリーンな中田という図式でどうだ』という提案もあったようです。でも、中田自身、国政に出たときは高秀が紹介したゼネコンがついていたんですよ」

 

夫人 夕刊紙を使った作戦は非常にダメージがあったと思います。主人は2万票差で敗れたのですが、キーになったのが、夫と中田さんの両方の地盤だった青葉区。ここで5万票の差がついたのですが、青葉区は東京通勤族が多く、夕刊紙がよく売れる地域なんです。

 

 

 中田氏は、恩師に逆転勝利した。選挙後、彼は高秀氏に向けて「自分が逆の立場だったら本当に辛いと思う。いままでの業績を否定するつもりはない」との言葉を贈ったのだが……。

 

夫人 私は市長公舎に住んでいたのですが、選挙後まだ夫の任期中にもかかわらず、中田さんの妻が市役所に「議員宿舎にはいられないので、早く市長公舎に移りたい。いつ入れます?」と追い出し催促するような電話をしたのです。やむなく、急邊、引っ越すことになったのですが、業者に頼む時間がない。事務所スタッフに頼んで荷物をピストン輸送しました。あきれたことに、まさにその最中に中田の荷物を載せた車が市長公舎にやってきたのをスタッフが見て「そこまでやるのか」と憤慨しました。また、中田の支援者から「おまえ、いつまで横浜に住んでいるんだ?」と脅迫めいた電話が掛かってきたこともありました。普通の人ならそれだけで参ってしまうでしょうね。

 主人は選挙後、「俺が至らなかった」と、淡々と話していましたが、無念だったと思います。選挙から5ヵ月後、主人は突然倒れました。憤死……そうかもしれません。中田さんのような方と付き合ったがために、主人の死期は早まりました。葬儀に中田さんが来ましたが、「(葬儀場に)入らないでほしい。来ても席に座らないでほしい」と頼みました。

 

ある横浜市議は弔問を拒絶された際の中田氏の行動を振り返る。

 「帰り道、車に同乗していた市の総務部職員の襟首をいきなり掴み、『おい、オレに恥をかかせてどういうつもりだ』と怒鳴り上げたそうです」

 

 * *

 

夫人は最後にこう言った。

「『週刊現代』の一連の記事の結果、中田さんが政治家として二度と立ち上がれないほど潰れてほしい。家族全員がそう思っています」

 はたして中田氏には公選公職人としての資格があるのだろうか。

 

 

「キャバクラ行き」を質すと意味不明発言連発!

中田市長会見を"実況中継"

 

 本誌12月1日号(11月19日発売)は中田市長の「公務放棄」にかかわる醜態を報じた。横浜市と姉妹都市関係にある米・サンディエゴ訪問を出発直前の10月24日に急遼延期、予定されていた記念事業がぶち壊しになる中、中田市長は『ゆず』のライブコンサート、札幌ドームでの日本シリーズ第一戦を観戦、さらに六本木のキャバクラで「ホステスおさわり」に興じていたのだ。

 11月19日、横浜市庁舎に市政クラプの記者を集めた会見で、中田市長は海外視察延期の理由を次のように語った。

 「現地の市役所と連絡とって、市長も職員も(サンディエゴ市が山火事のため)今は対応することができないということで、取りやめたわけです。その時期にお祝い事をやることを続行することはきわめて失礼な話でしょ」

 終始、「まくしたて、苦虫を噛み潰したような表情」(市政記者)だったという中田市長は、続くキャバクラに関する質問にはタジタジに。

 六本木に行った理由を「エグザイルと打ち合わせ」と答えた直後に「打ち合わせというか……打ち合わせもしたし歌も唄った」と言葉を濁した。さらに「場所はキャバクラか」の質問には、「それは分からない」と即答するも、続けて、「女性いましたね。ただ僕本当に初めてだから、どういう状況なのかは……」と言うばかり。「ホステスとのやりとり」や「キャバクラとの認識」について記者が追って質すと、「一事が万事」「一事が万事」と、意味不明のフレーズを繰り返すばかりだったという。

 横浜・サンディエゴ友好委員会会長で元自民党市議の鈴木正之氏は怒りを露(あらわ)に言う。

 「我々が予定どおりサンディエゴに行き、行事に参加したことが先方に迷惑をかけたような言い方じゃないか。われわれは、現地の責任者である在米邦人の会長さんと何度も連絡し、先方が『是非お越し下さい』とおっしゃっているので行った。中田市長の発言はまったく信じがたい」

 本誌は、サンディエゴ市長室から横浜市の国際政策室宛に送られたメール(10月23日付)を入手。確かに、「金曜日の中田市長との面会、および日曜日の調印式におけるサンダース市長の参加については、現時点で予定しております」と書かれていた。

 民主党横浜市議の星野國和氏も苦笑いを浮かべて語る。

 「議員がキャバクラで打ち合わせするかって? ないよ(苦笑)。キャバクラだと知らなかったとしても、店に入ってから断ればいい」

 中田市長には、真実を語る説明責任がある。

 

(写真説明) 11月21日、首都高速出口の開通式でテープカットする中田市長。美女を後ろに、満面の笑み

 

(写真説明) 『おしゃべりクマさん』の愛称で親しまれた高秀氏

 

(写真説明) サッカー02年W杯の招致や観光名所・大さん橋の建設などの業績をあげた高秀氏(中央)

 

(写真説明) 中田氏が高秀氏の事務所に乗り込み、叩き付けた挑戦状(写真上)。選挙に勝利すると、敗れた高秀氏について「引き際は考えないといけないと思った」と語った(下)

 

(表)

年月

高秀氏の行動年表

中田氏の行動年表

90年4月

横浜市長選挙に出馬し初当選

市長選にスタッフとして参加 高秀氏と出会う

91〜92年

 

中田氏は高秀家に急接近。娘をデートに誘うなど、家族同然の付き合いになる

93年7月

中田氏に票田や支援者を紹介する

衆議院議員選挙に出馬し、初当選

94年4月

98年4月

横浜市長選に2選

横浜市長選に3選

事前に何の説明もなく対立候補の応援に回る

高秀氏が当選すると一転、市長室に詫びを入れにやってきて、土下座したという

その後再び、市役所に頻繁に出入りするなど一時的に“復縁”

02年3月

 

中田氏が高秀氏の対立候補として横浜市長選に立候補

選挙が始まると、中田氏は「敵は利益、利権を守るため、徹底してやってきます」などと政策論争でなく、人格批判の戦術に出る

世論調査で高秀氏が中田氏を10ポイントリードすると、中田氏はメディア戦略に全力を注ぐようになる

最後のメディア戦略が奏功し、2万票差で中田氏が勝利した

02年8月

選挙から約5ヵ月後、食道静脈瘤破裂で急逝

葬儀に出向くも、高秀家側は「中田を入れないでくれ」と要求

 

(写真説明) 本誌記事への反論会見を行う中田市長(提供:毎日新聞社)