鳩山前首相一問一答 見通しなく「県外」発言 琉球新報(2011.2.13)

 

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鳩山前首相一問一答 見通しなく「県外」発言

2011年2月13日

 

 ―2009年衆院選で移設先は「最低でも県外」と発言した際の見通しは。

 「民主党は沖縄ビジョンの中で、過重な基地負担を強いられている沖縄の現実を考えた時に、県民の苦しみを軽減するために党として『最低でも県外』と決めてきた。鳩山個人の考えで勝手に発言したというより党代表として党の基本的考えを大いなる期待感を持って申し上げた。見通しがあって発言したというより、しなければならないという使命感の中で申し上げた。しっかりと詰めがあったわけではない」

 

 ―首相就任後もなぜ「県外」が党内、閣内で浸透しなかったのか。

 「政権を取った後の難しさで、簡単じゃないとの思いから腰が引けた発想になった人も多かった。閣僚は今までの防衛、外務の発想があり、もともとの積み重ねの中で、国外は言うまでもなく県外も無理だという思いが政府内にまん延していたし、今でもしている。その発想に閣僚の考えが閉じ込められ、県外の主張は私を含め数人にとどまってしまった」

 

 ―当初、大きな問題になると考えていたのか。

 「最終的に首相を辞する大きなテーマになるとは予測していなかった」

 

◆常時駐留なき安保

 ―常時駐留なき安保はなぜ封印したのか。

 「信念としては今も生きている。封印したのは、旧民主党では十分主張していたが、今の政権を取った民主党内では残念ながら市民権を得ていなかった。普天間移設の問題でも、常時駐留なき安保という文言は使わなくてもその方向に導いていきたかったので、『国外、最低でも県外』と何度も言った」

 

◆漏れた機密

 ―閣僚の発言はバラバラだった。

 「岡田(克也)君は外相当時、マニフェスト(政権公約)に『県外』とまで書かなかったと話したが、民主党が圧倒的な国民の支持を得て政権を中心的につくらせてもらったのだから、党のビジョンはしっかり打ち出すべきだと思った。一致して行動していただきたいという思いはあった」

 

 ―常時駐留なき安保を実現させる布陣を目指さなかったのか。なぜ北沢俊美氏を防衛相に選んだのか。

 「北沢氏は外務防衛委員長をしていて防衛関係に安定した発想を持っているということだった。テーマを決めてそのための大臣だという前に、リストを決めてその中で一番ふさわしい人という形で当てはめていった」

 「北沢防衛相は、政権交代後、どこまで防衛省の考え方を超えられるか、新しい発想を主張していくかということが本当はもっと勝負だった気がする」

 

 ―外務、防衛両省に新しい発想を受け入れない土壌があったのでは。

 「本当に強くあった。私のようなアイデアは一笑に付されていたところはあるのではないか。本当は私と一緒に移設問題を考えるべき防衛省、外務省が、実は米国との間のベース(県内移設)を大事にしたかった。官邸に両省の幹部2人ずつを呼んで、このメンバーで戦っていくから情報の機密性を大事にしようと言った翌日に、そのことが新聞記事になった。極めて切ない思いになった。誰を信じて議論を進めればいいんだと」

 「自民党(政権)時代に相当苦労して(県内移設という)一つの答えを出して、これ以上はないという思いがあり、徐々にそういう方向に持っていこうという意思が働いていたのではないか。彼らが米国と交渉すると、信頼するしかない。これ以外ない、これ以上は無理だとなった時に、その先を進めることはなかなかできなかった。自分自身の力量が問われた」

 「防衛省も外務省も沖縄の米軍基地に対する存在の当然視があり、数十年の彼らの発想の中で、かなり凝り固まっている。動かそうとしたが、元に舞い戻ってしまう」

 

◆密使、候補はいた

 ―味方はいたのか。

 「平野博文官房長官(当時)は(望みをかけた)徳之島をいろいろと模索してくれた。少なくとも1人はいた」

 

 ―密使を使う考えはあったのか。

 「やりたい発想はあり、やってくれそうな方もいて検討はしたが、非常に難しかった」

 

 ―県内移設理由として在沖米海兵隊の抑止力は唐突感があった。

 「徳之島も駄目で辺野古となった時、理屈付けをしなければならなかった。海兵隊自身が(沖縄に)存在することが戦争の抑止になると、直接そういうわけではないと思う。海兵隊が欠けると、(陸海空軍の)全てが連関している中で米軍自身が十分な機能を果たせないという意味で抑止力という話になる。海兵隊自身の抑止力はどうかという話になると、抑止力でないと皆さん思われる。私もそうだと理解する。それを方便と言われれば方便だが。広い意味での抑止力という言葉は使えるなと思った」

 

◆オバマ大統領の手紙

 ―日米首脳会談での発言が物議を醸した。

 「沖縄県民に理解されながら、米国にも合意してもらえる案が必ず作れるという気持ちは持っており、私という人間を信じてくれという意味で『トラスト・ミー』という言葉を使った。昨年7月にオバマ米大統領から手書きのレターが来て『あなたは自分の言葉に忠実だった』と書かれていた。日米関係が大変毀損(きそん)したと(メディアに)書かれたが、少なくとも7月の段階ではそうではない」

 「残念ながら沖縄の皆さんに理解してもらえる案にはなっておらず申し訳なく思っている。政府と沖縄との信頼関係が大きく毀損したのは事実で本当に申し訳ない。大変残念だ」

 

 ―09年末までに一度、県内移設を決断したのではないか。

 「トラスト・ミーという言葉まで使い、県外移設のめどが立たない現実があった。一方で(09年12月段階で)最終的に昨年5月28日に発表したもの(沖縄の負担軽減策)と同じようなものが既に(了解を)取れていた。ここを前面に出し、沖縄の理解をいただき辺野古は仕方がないと感じた瞬間はなかったと言えばうそだ」

 「しかし仲井真弘多沖縄県知事の意向なども伺いながら、沖縄県民に対する裏切りで政治的に持たないと判断し決着時期を延期した」

 

◆幻の直接交渉

 ―決着時期を昨年5月とした理由は。

 「米国として(09)年内の決着を期待しているものを1年は延ばせない、せいぜい半年という思いがあった。3月までは予算で動けない。社民党の党内事情もあった。普天間を争点にしたら7月の参院選を戦えない。ゴールデンウイークに米国に行き、(オバマ氏と)直接交渉しようと思っていたが、(政府案が)まとまっていなかった」

 

 ―昨年3月の韓国海軍哨戒艦沈没の影響は。

 「現実に北朝鮮の脅威を感じた。ある意味で戦争行為。(移設先が)辺野古に舞い戻らざるを得なくなって来る時の現実の脅威が、てこみたいに働いてきた」

 

 ―「腹案」とは。

 「徳之島に移設先を見いだしたかったので腹案という言い方をした。米軍も最後には、訓練の一部を移すことは検討できるということだったから、日米共同声明の中で『徳之島』という文言は生きている」

 

◆遠かった政治主導

 ―県内移設の最終判断は。

 「徳之島を諦めざるを得ないと結論を出した時。4月28日に(元衆院議員の)徳田虎雄氏と会い、(理解を得られず)完全に徳之島が閉ざされた」

 「沖縄と日本政府と米国との3者が協議機関をつくり、政府原案を議論する舞台ができれば乗り切れると思った。5月に仲井真知事と2回目に会った時に、知事選まではできないと言われ、沖縄の理解を得るところまで行かなかったと基本的に観念した」

 

 ―今後の交渉は。

 「普天間の移設先も固定化してはいけない。未来永劫(えいごう)、米国の基地として使わせるつもりで造ってはいけないという話は平野官房長官との間では認識していた。沖縄は納得していない。理解を得るためには日米合意には入っていないが、(基地としての使用に期限を設ける)暫定しかない(ようにする)とか、交渉のやり方はあってしかるべきだ」

 「(沖縄から)ある程度の距離があっても(米軍が)ワンパッケージであれば十分、抑止力という言葉で成り立つ」

 

 ―反省点は。

 「相手は沖縄というより米国だった。最初から私自身が乗り込んでいかなきゃいけなかった。これしかあり得ないという押し込んでいく努力が必要だった。オバマ氏も今のままで落ち着かせるしか答えがないというぐらいに多分、(周囲から)インプットされている。日米双方が政治主導になっていなかった」