書評1


書評1:比較生理生化学, Vol. 14, No. 1, pp. 80-81 (1997)より.

生物科学入門コース6 脳・神経と行動
(佐藤真彦著,A5版・頁239 定価2,800円 岩波書店)

 本書は9つの章からなる。
 『第1章神経系の構造』 カハールのニューロン説から始まって代表的なニューロン形態・脳の系統発生が簡潔に語られた後, Romerによる懐かしい脊椎動物の脳のシェーマでこの章は終わる。
 『第2章ニューロンの信号インパルス』 細胞膜, 静止膜電位, インパルスの発生, そしてインパルスの伝導の4節からなる。講義や実習で (教える方も, 教わる方も) いつも苦労する所だ。本書では, その骨格的な内容が一切の省略なく, 正統的に語られている。これは本書のすべてに通じることだが, 非常に真面目な記述である。
 『第3章シナプス伝達とニューロンの統合作用』 化学伝達・伝達物質と受容体・G蛋白とセカンドメッセンジャー系・電気シナプス・シナプス電位・ニューロンの統合作用。ほとんど2コマの授業内容がコンパクトに整理されている。
 『第4章感覚系と感覚情報処理』 受容細胞 (光受容と機械受容) でのトランスダクションから, 符号化, 周辺抑制と受容野の説明。この4章百余ページの中に, 神経科学の基礎知識が凝縮されている。
 『第5章情報処理のルールヒゲコウモリの聴覚を例にして』 ここで本書は明瞭な個性を示す。話はコウモリのこだま定位から始まる。超音波とそのエコーがコウモリの聴覚系で並列処理されること, 並列処理された結果が統合されてさらに上位の中枢へ送られること, その結果大脳皮質の上には外界の情報が『飛行機の操縦席に満載した多数の計器類』のように表現されること。ノートを取りながらじっくりと読むべき内容である。この章の最後の『情報処理のルール』では, 中枢での情報処理の基本的な構造が簡潔にまとめられている。日く,『並列処理, 階層処理,特徴抽出, チャンネルの統合, そして場所表示・マップ形成』, これが本書の中核であり著者の眼目であろう。
 少し脇道に逸れるが, 脳をこのような立場で捉えることについて, 評者はわずかに異論を持つ。この議論では「外的世界の情報を脳が如何に表現するか」が問題であり,故に脳のプロセッサーとしてのアーキテクチャーのみを扱う。しかし脳は「データそのものを基盤としたアーキテクチャー」, つまり, 蓄えられたデータそのものが脳のプロセッサー機能を逆に規定する側面も備えているはずである。その意味で本書の立場には多少の偏りを感じる。無論, 本書の的確かつコンパクトな論旨の価値を幾ばくも損なうものではない。
 『第6章いろいろな感覚系における情報処理』 ここでは昆虫の偏光感覚, 弱電気魚の混信回避, フクロウの音源定位の3つの研究が紹介される。丁寧なしかし何という冒険だろう。著者はおそらくこの膨大な事実と現象の詳細を投げかけて, 学生がノートを取り, 考えて考えて何日もかけて, そのすべてに共通する統一機構を理解するのを待っている。
 『第7章運動プログラムと行動出力』 この章では『反射』と『固定的活動パターン』が語られている。ザリガニの逃避行動と指令線維, ウミウシTritoniaの逃避行動, ヤツメウナギの遊泳行動, 運動の制御に関わる重要な研究事例が, 取りこぽしなく述べられる。
 『第8章動機付けと情動』 ティンバーゲンのイトヨから, 動機付け中枢の階層仮説が語られる。性ホルモンと性行動, 鳥の脳の性分化, カエルのコーリング, ラットのロードーシス, 摂食行動とVMHLHA, ネコの視床下部電気刺激による攻撃行動の誘発, スキナーボックスの中のラットの脳内自己刺激。
 『第9章神経系の発生と学習・記憶』 ショウジョウバエの分節化とホメオティック遺伝子から始まる。続いて脊椎動物の神経管形成, 軸索伸長, アポトーシス, 神経成長因子, 眼優位性カラムの形成とHebb, さらに長期増強と長期抑圧が語られて, 神経系の発生と学習過程が基本的に同じ機構による, と主張されている。スクワイアーの記憶の分類が述べられ, 海馬の長期増強が語られて, 本書は終わる。

 本書は真面目な教科書である。一番良い使い方は, 学部から修士課程1年生までの学生が比較的少人数で行う輪読会だろう。神経行動学に詳しい若手が1人加わって議論をつけ加えることができれば, 最高に良い。1ページづつ舐めるように読んだとき, 思考と議論の汗をかいたとき, この本はすばらしい学習の場を提供する。ほとんどの図に引用文献が示されているから, 原典に当たるのも容易である
 本書は残念ながら
, 学部1, 2年生が1人で片手間に読み飛ばせる本ではない。充実した論理を追うための頭の努力を惜しまぬ学生以外, 本書の内実を容易に掬い得ないだろう。『"TeaTime" と題する囲み記事をいれ, 歴史的なエピソードや参考知識』を盛り込むと, 冒頭に編集委員は書いたが, 著者はこれを用いず, 一切のエピソード, 閑話を排した。禁欲的と言って良いほど本書はまじめであり, テーマの選択において正統的であり, 読者に真摯な学習を求めている
 神経行動学の基本と中核を理解しようとする若い学生諸子に
, 本書を薦める。  
                                        (名古屋大学農学部 松島俊也)