鎌倉権五郎景政

鎌倉権五郎景政(かまくらごんごろうかげまさ)。景正ともいう。景将ということもある。また平景政、大庭景政ともいう。 平良文の五代の孫。治歴3年(1067年)生まれ。父は鎌倉景成といわれている。

峯渡内の上ノ屋鋪で生まれたという。かつては、すぐ北に景政産湯の井戸(三日月井)があったが、 最近区画整理がなされ住宅地となり、無くなってしまった。そのほか、村岡御霊宮の南の館(古館)に住んだという説もある。

八幡太郎義家が鎮守府将軍となって鎌倉に下向した時、権五郎景政は大倉ヶ谷の館を将軍に進し、由井の里に新たに館を立て移った。その地を甘縄と号した。 現在の御霊神社の敷地はその一部との説がある。

永保3年(1083年)16歳で鎮守府八幡太郎義家に従い、奥州後三年の役に出陣、 目に矢を射られるが敵を倒し、その名を天下に示す。 鎌倉党の中心的な存在となったと考えられる。 その後、大庭御厨を開拓し、伊勢神宮に寄進し、大庭御厨下司となって荘園を管理した。

景政は、大庭御厨だけでなく、八王子、千葉県野田(相馬御厨)などにも領地を持っていた。そして大庭御厨には、大庭城広川城、八王子には浄泉寺城、千葉県野田(相馬御厨)には目吹城 を持っていた。

景政は、大治5年(1130年)57歳で、甘縄で死んだといわれている。牛久、八王子などで亡くなったという伝説もある。 江戸時代の地図には、鎌倉材木座あたりに「けいせいとう」といわれる石塔があったが、現在は無い。

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