元弘の乱



元弘(げんこう)の乱。

二つの倒幕運動

倒幕運動には二つの山があった。一つは正中の変である。もう一つは元弘の変である。両者は7年ほど隔たりがあるし、 内容も大きく異なる。ここでは元弘の乱のみを扱う。

笠置山の戦い

後醍醐天皇は、元弘の乱に先立ち、比叡山延暦寺、南都(奈良)の興福寺、東大寺、高野山、那智山、石清水八幡宮、 播磨大山寺、伯耆大山、越前平泉寺などと倒幕で手を結んだ。

元弘元年(1331)8月、後醍醐天皇は鷲峰山に脱出。さらに27日、悪党組織と手を結ぶため笠置山へ行幸する。 そして笠置山で挙兵する。

9月2日、幕府は大仏貞直、足利尊氏らを上洛させることを決定。

9月28日、笠置山は落とされ、30日は後醍醐天皇はつかまる。

10月21日、兵糧攻めで赤坂城落城。楠木正成は城に火をつけて逃亡した。足利尊氏ら鎌倉に帰る。

翌年3月7日、後醍醐天皇、隠岐に流される。

上赤坂城の戦い

元弘2年(1332)赤坂城奪還し、上赤坂城で挙兵する。上赤坂城は、山上の堀と塀を一重にめぐらした臨時の城であった。 正成は、この他に下赤坂城、龍泉寺城、国見城など10以上の支城を構えていた。 太平記によれば、

関東大勢上洛事
去程に畿内西国の凶徒、日を逐て蜂起する由、六波羅より早馬を立て関東へ被注進。 相摸入道大に驚て、さらば討手を指遣せとて、相摸守の一族、其外東八箇国の中に、可然大名共を催し立て被差上。 先一族には、…名越遠江入道・大仏前陸奥守貞直…、 外様の人々には、千葉大介・宇都宮三河守・小山判官・ 武田伊豆三郎…三浦若狭五郎…結城七郎左衛門尉・小田常陸前司・長崎四郎左衛門尉・同九郎左衛門尉・長江弥六左衛門尉・ 長沼駿河守・渋谷遠江守・河越三河入道…此等を始として大名132人、都合其勢30万7千500余騎、 元弘2年(1332)9月20日鎌倉を立て、10月8日先陣既に京都に着けば後陣は未だ足柄・筥根に支へたり。
…元弘3年(1333)正月晦日、諸国の軍勢80万騎を三手に分けて、吉野・赤坂・金剛山、三つの城へ向けられる。
…金剛山へは、陸奥右馬助(北条家時)、搦め手の大将としてその勢20万騎、奈良路より向いけり。

赤坂城落城

幕府軍は、上赤坂城、下赤坂城、龍泉寺城、国見城などを落とす。上赤坂城の楠木正成らは詰めの城である千早城に逃げ込む。

千早城の戦い

千早城(大阪府南河内郡千早赤阪村)は、堅城であった。主郭の一の曲輪は長さ100メートル、幅20メートル。4つ曲輪を連郭式に配置した城であった。 幕府軍は「高さ二丁ばかりにて、周り一里にたらぬ小城」と高を括って攻める。ゲリラ戦に慣れていない幕府軍は苦戦し、兵糧攻めにするが、 十分な食糧を備蓄していた。

幕府が千早城をなかなかとせないのを見て、元弘3年(1333)1月、赤松則村が蜂起をする。 そして元弘3年(1333)閏2月、後醍醐天皇は隠岐を脱出、手を結んだ伯耆大山の船上山で討幕の綸旨を出す。

足利尊氏の寝返り

それを受けて、伯耆大山を攻めるべく出陣した足利尊氏は、元弘3年(1333年)4月29日、 天皇側へ寝返り、5月3日、六波羅探題を攻め、 7日、六波羅南方探題の北条時益に流れ矢にあたって落命、9日、六波羅北方探題の北条仲時は鎌倉を目指したが、 近江源氏の末裔京極道誉に鎌倉に行く手を阻まれ、近江番場蓮華寺で自害した。

六波羅探題は、承久3年(1221)承久の乱をきっかけに、 洛中警護と西国の所領訴訟を目的に設置された。公家の政治的動向を探り、西国を支配する役目を持っていた。

鎌倉攻め

尊氏に続いて元弘3年(1333年)5月8日、新田義貞も上野国で蜂起し、 一路鎌倉に攻め込む。

幕府は、多くの軍勢を元弘の乱の鎮圧に出しており、鎌倉には、北条氏一族の一部が残っていただけで、 不利な戦いであった。北条氏は、同年5月22日、鎌倉の東勝寺で滅亡する。 元弘5月10日に千早城を撤退してから12日後、文永11年(1274)10月の元寇から60年後であった。

幕府軍撤退

元弘3年(1333)1月、戦いを開始してから4か月後の、元弘3年(1333)5月10日、足利尊氏の寝返りを知って 城を落とせぬまま幕府軍は撤退する。

金剛山の鎌倉勢の滅亡

金剛山(奈良県御所市と大阪府南河内郡千早赤阪村との境目にある山)から引返した平氏(北条勢)は、 尚、奈良にとどまって都を攻めるとの噂があったので、中院定平を大将に楠正成を付けて遣わした。 ところが残兵5万余騎は、鎌倉陥落の報を聞き、官軍に身方したり降参して数が減つて来たので、 北条治時(北条高時の猶子)、 大仏高直、江馬公篤、北条時俊、長崎高貞(長崎円喜の子)、二階堂貞藤以下50余人の大名らは、 6月5日、奈良の般若寺(奈良市般若寺町)で出家をして、僧侶の姿になつて降参を申し出た。

しかし7月9日、北条治時、大仏高直、江馬公篤、北条時俊、長崎高貞ら15人は阿弥陀峯(京都市東山区七条)で殺され、 二階堂貞藤は後日死刑に処せられた。

楠正成のその後

正成は、天王寺合戦、天見峠でも幕府軍を破って後醍醐天皇の京都還幸を図った。建武の新政後、 その功績により、河内・和泉の守護となったが、延元元年(1336)足利尊氏と湊川で戦い 5月25日戦死した。

子に正行・正時がいたが正平3年1月、四条畷の飯盛山西麓の戦いで足利尊氏が派遣した高師直に敗れたて死んだ。

戦いの意義

この戦いは、普段は平地に住み、いざ戦という時に臨時的に山城を使う戦術の先駆けとなった。

また戦いは
・ 平地から山に変わった。
・ 騎馬の戦いから徒歩の戦いに変わった。
・ 重たい大鎧から軽い装備に変わった。
・ 武器が弓から槍に変わった。
など一大変革をもたらした。

おさらい

元弘元年(1331)
 8月27日、後醍醐天皇笠置山へ。挙兵。
 9月 2日、幕府は大仏貞直、足利尊氏らを上洛させることを決定。
 9月28日、笠置山は落ちる。
 9月30日、後醍醐天皇はつかまる。
10月21日、赤坂条落城。楠木正成逃亡。

元弘2年(1332)
 3月 7日、隠岐に流される。
       楠木正成が上赤坂城で再挙兵する。
 9月20日、幕府軍、鎌倉を立つ。

元弘3年(1333)
 正月 晦日、諸国の軍勢80万騎を三手に分けて、吉野・赤坂・金剛山、三つの城へ向けられる。
   閏2月、後醍醐天皇は隠岐を脱出。
 4月29日、足利尊氏天皇側へ寝返る。
 5月 3日、六波羅探題を攻める。
 5月 7日、六波羅南方探題の北条時益に流れ矢にあたって落命。
 5月 8日、新田義貞も上野国で蜂起
 5月 9日、六波羅北方探題の北条仲時は鎌倉を目指したが、京極道誉に鎌倉に行く手を阻まれ、近江番場の蓮華寺で自害。
 5月10日、千早城を落とせぬまま幕府軍は撤退する。
 5月11日、小手指原の戦い。
 5月12日、久米川の戦い。
 5月15日、分倍河原の戦い。
 5月18日、新田勢は、三手にわかれて鎌倉に迫った。北条勢はこれを迎え撃った。
 5月22日、新田義貞に攻められて鎌倉幕府滅亡。
 6月 5日、金剛山の鎌倉勢、奈良の般若寺で出家。
 7月 9日、金剛山の寄手滅亡。

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