箱森長江氏

箱森(はこのもり)長江氏。箱森長江氏は、長江太郎義景の十二代景綱を祖とする長江氏と 十六代景澄を祖とする長江氏がいる。

十二代景綱を祖とする長江氏

栃木の苗字と家紋 上下巻 遅沢俊郎著 下野新聞社刊に次のように書かれている。
「十二代の長江景綱が箱森長江氏の初代である。2歳の時、父景平を(元弘の乱で) 河内国金剛山で亡くしたが、母方の実家長沼氏に養育され、 長沼氏の一族筥村氏の領する箱森の地に貞和3年(1347年)17歳の時に居住した。」

この文章から、「箱森の地に貞和3年(1347年)17歳の時に居住した」というのであるから、第十二代長江景綱は、元徳2年(1330年)生まれである。 そして2歳の時つまり元弘2年(1332年)に父景平を亡くした。その場所は、河内国金剛山であることがわかる。

元弘2年(1332年)と言うと、楠木正成が河内国金剛山の千早城で倒幕の挙兵をした年である。千早城は河内国 金剛山にあり、そこでは大きな戦い(千早城の戦い)があった。太平記によれば、長江弥六左衛門尉は、北条一族ほかと京の凶徒退治に向かった。 そして元弘3年(1333年)正月、 軍勢を三手に分けで、吉野・赤坂・金剛山、三つの城へ向かった。金剛山へは、(大仏)陸奥右馬助、搦め手の大将として奈良路から向かった。

このことから、景綱の父は、長江弥六左衛門尉で、景平ということ、元弘2年(1332年)出陣し、河内国金剛山の戦いで戦死したことがわかる。 景綱を祖とする箱森長江氏の父は、相模国深沢長江氏・長江弥六左衛門尉景平である。

以上の事から、景綱を祖とする箱森長江氏の系図を次のように考えることが出来る。
義景―師景―景光―景泰―景信―景朝…深沢左衛門尉…長江弥(六)左衛門慰政綱―長江弥六左衛門慰景平―景綱…

十六代景澄を祖とする長江氏

箱森長江氏の館庭には、長江家中燕碑が建っている。 この系図によれば、箱森長江氏の祖は、十六代景澄である。 景澄は相模国葉山長江氏の流れを汲んでいる。 葉山長江氏の流れを汲む長江氏は、戦国大名皆川氏に仕えた。

・ 古河公方との親交

1520年代、古河公方足利政氏から皆川家重臣長江左京亮あてに、 「(皆川)成勝はまだ年少、立派な武将に育ててやってほしい」という文書が出されている。 大永3年(1523年)父皆川宗成が宇都宮忠綱と川原田で戦い戦死した時の書状と言われている。 長江氏は、幸嶋、大橋、柏倉の各氏とともに、譜代の家臣であった。皆川氏は古河公方に組みしていた。 成勝は天文12年(1543年)の川越の戦いで、古河公方足利晴氏に従って北条氏と戦っている。

・ 北条氏との戦い

天正13年(1585年)北条軍7千が皆川城を攻める。ときの城主皆川広照は、草倉の地(栃木市志鳥町)で迎え撃つが激戦 となり皆川勢は、240名以上の死者を出す。その中に長江左京進がいた。(以上、下野戦国史)先の長江左京亮の末裔と思われる。

・ 上野彰義隊

慶応4年(1868年)に長江杢左衛門は、土屋帯刀(江戸幕府の御目付)の家来であった。そして長江杢左衛門の五男長江貞之助は、 上野彰義隊に参加して戦死している。

・ 駿府へ

長江貞之助の相続人長江半次郎は元将軍(徳川)慶喜の後継者亀之助に従って駿府へ行っている。 徳川家最後の掾軍徳川慶喜は、駿府で謹慎した。亀之助も同行したのであろう。半次郎はそれに従って駿府に行き、亀之助に仕えたのだろう。

主な史跡

・ 箱森館(栃木県栃木市箱森町。長沼氏の一族筥村氏の館。長江景綱が入った館と思われる。それから現在まで箱森長江氏の根拠地。)
・ 長江家中燕碑(栃木県栃木市箱森町)
・ 長江橋(栃木県栃木市皆川町。長江氏の領地の前を流れる川に架かる橋。現在もある。)
・ 長江神社(栃木県栃木市皆川町。旧長江神社。いまは、長江の坪、番場、谷津の三つを合祀する八幡神社。)
・ 奥都城(長江氏宅の隣の鷲宮神社の隣にある。)
・ 皆川城(栃木県栃木市皆川町。長江氏が仕えた皆川氏の居城。)

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