橋合戦

橋(はし)合戦。

宇治橋を巡る攻防から橋合戦という。平家物語にでてくる。

治承4年(1180)以仁王が平氏打倒の挙兵をする。

5月25日、以仁王らは、追捕使に追われて円城寺から興福寺へむかっていた。 摂津源氏源頼政は、途中宇治川で、 追捕使を迎え撃つことにした。そして時間稼ぎをし、以仁王を先に逃した。

追捕使は、大将軍には、平知盛、平重衡、行盛、忠度、侍大将には藤原忠清、その子忠綱(足利忠綱)、藤原景家・・・藤原忠光、悪七兵衛藤原景清を 先鋒に、木幡山を越え、宇治橋に押し寄せた。

頼政は、宇治橋の橋げたを落とした。追討使は宇治川をなかなか渡り切れないでいた。 これを見た17歳の藤姓足利忠綱は、自分の軍勢は利根川を渡るのは慣れているといって、 200人で馬筏を組んで宇治橋の下流を渡った。これを見た追討使はまねて、渡った。そして戦いとなった。

この戦いで、源頼政は左足の膝頭をいられた。父を落ち延びようとせた嫡子兼綱は、忠綱に射落とされた。 仲綱も重傷を負い平等院の釣り殿で自害した。養子の源仲家(木曽義仲の兄)・仲光親子など死んだ。

源頼政は、自害し、渡辺唱が首をはね、その首を石に括り付け、宇治川の深いところに沈めた。

以仁王は、綺田の光明寺までたどりついたが、追手の藤原景家に追い付かれ合戦となり、以仁王は流れ矢が左わき腹にあたって動けなくなり、 つきそった人が身柄をかくして、首をはねた。


宇治橋は瀬田橋とともに宇治川に架かる橋。宇治橋を巡っては、いくつもの戦いがあった。
天武元年(672)壬申の乱で大海人皇子と大友皇子が決戦をした。
治承4年(1180)5月の以仁王の挙兵のときの橋合戦。
寿永3年(1184)1月の木曽義仲と源義経の宇治川の戦い
承久3年(1221)5月の承久の乱の宇治橋合戦
である。

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