葉山長江氏

葉山(はやま)長江氏。

長江義景の後を継いだのは、次子四郎明義であった。明義の子である義重のとき、1247年三浦氏が北条氏と戦った 宝治合戦がおこり、三浦氏に味方した義重は討死した。

義景、明義、義重と葉山郷にある長江館に住んだ。

その領地は、長江一族の師景に渡された。そして師景―景秀―頼秀と続いた。

鎌倉時代の後半のころは、歴代、長江八郎左衛門尉を名乗った。

元弘の乱(1331年)では、後醍醐天皇方につき、鎌倉幕府を倒し、建武の新政では、武者所となった。

武者所は、元弘3年(1333年)皇居の警衛、京都の治安保持などのために設置された。新田氏を中心に64人の武士が6組に分かれて、交代で任務についた。

しかしその後、後醍醐天皇と足利尊氏が争ったとき、後醍醐天皇側についたため、尊氏に敗れて勢力を弱めた。

さらに足利尊氏と弟の直義が争った観応の擾乱では、直義に味方したため、勝利した尊氏に葉山の領地などを奪われた。

その後、葉山の領地を取り戻すべく葉山郷に乱入するが、葉山長江氏のその後ははっきりしない。

葉山郷土史によれば、義重系統の長江氏は、栃木系に引き継がれていった。

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