平治の乱


平治の乱(へいじのらん)。

信西の悪行と最後

保元の乱後、信西(藤原道憲)が政権を握った。 信西は自分の息子たちを要職に就ける、二条天皇の即位に伴い天皇の側近に自分の子を送り込むなどする。

それを苦々しく思っていた藤原経宗と藤原惟方である。二人は藤原信頼に近づく。信西と平清盛に対立する義朝は、信頼と手を結ぶ。

平清盛は、伊勢の安濃津から熊野へ詣でたとき大きな鱸が船に飛び込んできた。これを一族で食べたところ、一族は繁栄したという。 それ以来熊野詣でをしている。

平治元年(1159)12月13日平清盛が熊野詣でに行っている時、信頼が義朝の軍を用いてクーデターを起こし、 逃げて宇治の田原で穴掘って隠れていた信西を討ち取る。そして政権を握る。

日本一の不覚人・藤原信頼

平清盛は紀伊国湯浅氏から提供された武具で武装し17日京へ戻った。そして作戦をたて25日深夜、二条天皇が清盛邸に、後白河法皇も仁和寺に匿った。 信頼が二条天皇、後白河法皇を探したが見つからなかった。源義朝は信頼を「日本一の不覚人」と罵った。

戦闘

やがて二条天皇から信頼と義朝の追討宣旨が清盛に出された。源義朝の軍勢は200。一方平清盛の軍勢は500であった。 12月26日平氏は、六条河原に源氏を誘き出し戦った。 中立をたもっていた源頼政は、義朝の長男義平の攻撃を受けたので 清盛方について義朝軍を攻め、義朝は敗れた。

乱後

信頼は公卿でありながら六条河原で斬首された。義朝は尾張国内海の庄まで逃れるが長田忠致の裏切りに合い殺される。 義平は清盛の命をねらって隠れていたのを見つかり打首。次男の頼朝は伊豆に流された。 希義、範頼、全成、義円、義経も助けられた。

平清盛の台頭

藤原信頼と信西を同時に失った後、政権を握ったのは藤原経宗と藤原惟方である。これを快く思わない後白河法皇は、二人を流罪にした。

政治的に無力化した後白河法皇が目を付けたのが伊勢平氏平清盛である。 公家を退け武家を用いた。清盛は後白河院法皇の院政を助けた。

しかしその後対立し、後白河院法皇を幽閉して平清盛の全盛期がはじまる。福原幕府である。

東国の武将

この戦いに参加した東国の武将は、三浦義澄、熊谷直実、上総広常、 平山季重、波多野義道、山内俊通、山内俊綱、斎藤実盛、岡部忠澄、猪俣範綱、足立遠元らである。

結果

この戦いの結果、源氏は後白河院法皇の院政、言い換えれば貴族社会から切り離された。 東国は武士の発祥の地で平将門以来、独立意識の強いところである。その地の豪族達が東国・伊豆に流された頼朝を利用し、 独立して鎌倉に独自の文化である武家文化を築くことになる。 東国の諸豪族達をまとめ上げるために、河内源氏の嫡流・頼朝という求心力が必要だった。

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