深沢城

拡大 深沢(ふかざわ)城は、460年ほど前、今川氏が築城した。

その後北条氏が占領して、黄八幡で有名な北条綱成が守備していた。 甲斐の武田氏と相模の北条氏と駿河の今川氏は甲相駿三国同盟を結んでいたが、今川義元が 桶狭間の戦いで戦死し、今川氏真の時代になると、今川氏の 勢力が衰え、駿河の国は徳川家康の勢力が及んでくる。

それを危惧した武田信玄は、駿河の国を手に入れようと永禄11年(1568年) 今川氏真を攻める。(家康と申し合わせて攻めたという説もある。)氏真は 掛川城に逃れる。

北条氏康は、今川氏を助け、永禄12年(1569年)上杉謙信と同盟を結び、武田信玄に 対抗する。同年武田信玄は小田原城を攻め、帰りに三増峠で 北条氏と激しい戦いをしている。 信玄はその後、再び駿河に進攻し、元亀元年(1570年)11月武田信玄が包囲し、 金山衆などを使って攻め立てた。翌元亀2年1月3日武田信玄は深沢城に有名な矢文を送って いる。

内容の要旨は、「氏真(今川義元と正室武田信虎(信玄の父)の娘との間に嫡子として生まれる。 天文23年(1554年)に北条氏康の長女早川殿と結婚)は若輩の故か、おじである 信玄との交わりを絶ち、こともあろうに上杉謙信と手を組み武田を 亡き者にしようと企てている。だから撃砕した。駿河の国をはじめ東八国は信玄に与えられた。 北条氏康が邪魔するのは許さん。後詰めを小田原に頼め。氏政と雌雄を決するために出陣した。」 というものであった。

綱成は、信玄に攻められ、1月16日に開城して神奈川県の玉縄城に退いた。北条氏の後詰の軍勢は10日に 小田原城を発ち、深沢城のすぐ近くまで来ていた。

城は武田氏のものとなり、重臣の一人駒井右京之進が城主として居城した。 その後北条氏は奪回を試みたが失敗。 天正10年(1580年)武田氏滅亡の際、駒井右京之進は城を焼いて退去した。

天正10年(1584年)小牧・長久手の戦いの際、北条氏の押さえとして徳川家康が三宅惣左衛門を 置いたがそれを最後に廃城となった。

馬伏川と抜川に挟まれ、本丸、二の丸、三の丸、馬だし、下馬留、空堀等があった。 現在は、三日月堀跡、馬だし、下馬留、空堀等が残る。本丸、二の丸、三の丸は 田んぼで稲が栽培されている。石碑の右手にある細い道をたどると本丸跡まで いける。

電車では御殿場線御殿場駅ないし足柄駅を利用。しかし両駅から遠いので、車が便利。 車では、県道78号線を御殿場から足柄に向かって中間ほどに二股に分かれる 道がある。(信号はない。そこに深沢城跡の石碑が建っているが、草でよく見えない。) そこを左に入って少し行くと右手に写真の石碑がある。

足柄から御殿場に向かっていくと石碑と右に入る道がわかりにくいので注意。 駐車場なし。石碑の前の道に1台駐車可。トイレ等一切なし。

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