深沢長江氏

深沢(ふかざわ)長江氏。

義景の子に景行がいた。そこ子の景家は相模国北深沢に住んでいたので、深沢氏を名乗った。 しかし深沢氏は、建保元年(1213年)の和田合戦で、景家は和田義盛に味方し、捕らえられ、北深沢の領地を失ったといわれる。 その北深沢の地は長江一族の師景の子景光に引き継がれたと思われる。当時は、このような場合、親族が後を継ぐのが慣わしだった。

嘉歴3年(1328年)北深沢郷地頭長江弥左衛門尉政綱、鶴岡八幡宮供僧円重と、正和3年(1314年)以来の供米 をめぐって争っている。政綱は、作人が直接納めたと主張、円重は、政綱が止めていると主張、幕府は政綱に供米を納めるよう命じた。

元弘2年(1332年)の冬、楠木正成は河内国金剛山の千早城で倒幕の挙兵をする。長江弥六左衛門尉は、北条一族ほかと京へ退治に向かう。 元弘3年(1333年)金剛山を攻める。長江弥六左衛門尉はこの戦いで討死する。 子の景綱は2歳だった。17歳のとき、母方の長沼氏の領地である下野国箱森に住みつき、箱森長江氏となった。

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