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岩槻城
岩槻(いわつき)城は、長禄元年(1457年)扇谷上杉家の家老太田道灌が築城。他方、太田道真、太田資清、成田氏等の説もある。 当時古河公方は、関宿城、騎西城等を持ち勢力を拡大しようとしていた。 それに対抗するために、扇谷上杉持朝は、太田道真、太田道灌父子に川越城、江戸城岩槻城を築かせたといわれている。 古河公方が勢力を落し、北条氏が台頭すると、太田氏は上杉氏の有力な勢力として最後まで北条氏に抵抗する。 永禄7年(1564年)第四代城主太田資正(三楽斎)の時、安房の里見義弘と組んで北条氏康と戦ったが敗れる。 (第二次国府台合戦) 失地回復のために宇都宮に出向いているとき、北条氏に内通した嫡子太田氏資に城を乗っ取られ、資正は次男の梶原政景とともに娘婿である 佐竹城佐竹義重を頼って落ち延びた。 そして資正は片野城、梶原政景は柿岡城に入り、佐竹氏の客将となった。 城を乗っ取った太田氏資は北条氏に仕えたが、里見氏との三船山の戦いで戦死。(一説では岩槻城をほしい北条氏は、氏資が邪魔になり、戦死するように仕向けたともいわれている。) 北条氏政の次男が婿に入って太田氏を継ぐ。 豊臣秀吉の小田原攻めでは、天正18年(1590年)5月20日、豊臣方浅野長政らの攻撃を受け、2日後の22日に落城。徳川家の家臣高力清長が城主となった。 江戸時代になると、高力、阿部、板倉、戸田、松平、小笠原、永井、大岡の譜代大名が城主となった。川越城、忍城とともに江戸の北の守りの城 として重要な役目を果たす。明治4年廃城となった。 本丸、ニの丸、三の丸、天神曲輪、竹沢曲輪、竹束曲輪、新曲輪、鍛冶曲輪があった。元荒川のほとりの湿地帯を利用した平城。天守閣や石垣はなく、土塁で囲まれていた。 現在は、当時をしのばせるものとして、黒門、があるのみ。見るべきものはほとんどない。 明治になって県庁が岩槻におかれることになっていたが、治安が悪く、県知事が岩槻に入れず浦和で足止めされ、結局浦和に県庁が置かれたとの話を聞く。 東武岩槻駅から約1.2キロ。県道2号線春日部に向かって右手に消防署がある信号を右折。少し行くと右手に駐車場あり。無料。左手が公園。道路沿いに 岩槻城の案内板がある。さらに徒歩で進と左手に岩槻城跡が。曲がってすぐ黒門がある。 突き当たりを右に行くと岩槻城跡の石碑。沼。右手に新曲輪、鍛冶曲輪跡がある。 「ふるさと散策路」となっている。沼にかかる朱塗りの八つ橋が有名。 街に近いので軽食、レストラン、中華食堂等あり。電話、トイレあり。 |