柿岡城

拡大 柿岡(かきおか)城は、源頼朝が幕府を開いた頃、常陸守護職八田知家が、その子小田時知(時家ともいう) をここにおいた。

その後代々柿岡氏を称し、片野城とともにこの地を支配した。

戦国時代末期になると柿岡氏は勢力を落とし、小田城の小田氏と対立する 佐竹城の佐竹義重は、永禄9年(1566年) 岩槻城親子ともどもを追われ、義重の客将となった太田三楽斎資正を片野城に、太田三楽斎資正の 次男梶原政景を柿岡城に入れた。

その後、梶原政景は、父で片野城である太田三楽斎資正とともに小田氏を攻める。 天正元年(1573年)に小田氏の小田城を攻略。義重は梶原政景を小田城主とした。柿岡城には梶原氏の 親族真壁房幹が入った。

その後、梶原政景は、北条につけば岩槻城に戻れるかもしれないという思惑から、佐竹義重の恩を忘れ 北条氏に寝返る。義重は小田城を攻める。政景は北条に助けを求めるが、北条氏はこれを無視。 結局、父太田三楽斎資正が間に入って、政景は許される。

城についての詳細は不明。現在は柿岡小学校となっている。土塁が残る。

その後、長倉義興、国分盛重、九州、柳川、立花宗茂、稲葉正勝等城主が次々に交代し、最後は幕府の直轄地となって 明治を迎える。

柿岡小学校をめざす。正面の坂を上った右手に写真の案内板が建つ。

小学校の脇に一次駐車可。トイレ等なし。

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