川越城跡

拡大 川越(かわごえ)城跡。

扇谷上杉氏の居城。 その扇谷上杉氏が、川越合戦で北条氏に滅ぼされた城として有名。

築城

扇谷上杉氏の屋敷は、当初鎌倉にあった。 川越城は、古河公方に対抗するため、長禄元年(1457年)4月、 扇谷上杉氏の当主上杉持朝が、太田道真・太田道灌親子、上杉氏宿老上田氏、 三戸氏、荻野谷氏に築かせた。

また、川越城は、上杉持朝が、仙波(川越市仙波町)から川越三好野郷(今の川越城)へ移ってきた時に、太田道真に築かせたとも、 長禄元年(1457)4月、太田道真が上杉持朝の命により、仙波の城を川越城に移したともいわれている。

新編武蔵風土記稿では、上戸の城(河越氏館)を引き移した、とある。

鎌倉大草紙38には、「その年、長禄元年(1457)四月、上杉修理大夫持朝入道は武州河越城を拠点に定め、 太田備中守入道(太田道真・道灌の父)は武州岩付城、 同左衛門大夫は武州江戸城(太田道灌)を拠点に定めた。 同年十月、相州下河辺古河城の普請が終わり、成氏も(鴻巣の館から) 古河城へ移った。」とある。

扇谷上杉氏

以降、扇谷上杉氏は、川越城を根拠とし、持朝−政真−定正−朝良−朝興−朝定(断絶)と、6代89年続いた。

持朝

持朝は、相模守護となった。次男三浦高救とその嫡男義同は相模三浦氏の三浦時高の養子となっている。 持朝は、川越城のほか江戸城、糟谷館などを建てている。 応仁元年(1467)9月6日、上杉弾正少輔入道持朝が川越城で逝去した。(この年、京都で応仁の大乱が起こっている。)

政真

後を政真が継いだ。しかし文明5年(1473)11月24日、修理大夫政真も五十子の戦いで24歳で討死した。

定正

政真には子がないため、故持朝の三男・定政に扇谷の家督を継ぐ。

・ 長尾景春の乱

扇谷上杉氏は、鎌倉扇ヶ谷から、古河公方に対抗するため川越城を本拠としたが、五十子砦に陣を取り、 成氏勢と対陣して毎日毎夜合戦を続けていた。亨徳の乱である。

その最中、山内の家務(執事)、長尾左衛門入道(景信)が死去したため、山内上杉氏の上杉顕定は、長尾尾張守忠景をその後とした。 長尾景春は、自分こそが家務職をうけたまわるべきと思っていたで逆心に及んび、文明8年(1476) 長尾景春の乱が起こる。

扇谷上杉家の家務(執事)は、太田左衛門入道道灌であった。道灌は、長尾景春の乱を治めた。しかしこの乱で五十子砦が崩壊すると、 文明9年(1477)定正は、五十子砦の陣を引き、川越城に戻った。

・ 太田道灌の暗殺

長尾景春の乱を治めた太田道灌の名声がたかまり、それを恐れた川越城の扇谷上杉氏上杉定生は、扇谷上杉氏の家宰の太田道灌を、 文明18年(1486)糟谷の館で殺害した。

・ 長享の乱

これを契機に、山内上杉氏と扇谷上杉氏は20年にわたり対立する。長享の乱である。 しかし、道灌を討ったことで多くの家臣定生の元を去り、劣勢は上杉定正は、今川氏親の助けを求めた。 氏親は、伊豆の家臣・伊勢宗瑞(北条早雲)を送って戦った。しかし明応3年(1494)10月、定正は、落馬し頓死した。

朝良

明応4年(1495年)伊勢宗瑞(北条早雲)は、扇谷上杉氏の家臣である大森藤頼の小田原城を奪取する。 今川氏との関係を重要視した朝良は、これを容認した。

永正元年(1504)朝良は、今川氏親・伊勢宗瑞(北条早雲)の援軍のもと、立河原の戦いで山内上杉氏の上杉顕定を大勝するが、 朝良は川越城を取り囲まれ、開城する。そして朝興を養子にして、江戸城 に隠居して、永正2年(1505)山内上杉顕定と和睦し、長享の乱が終わる。しかし朝興は、当主であり続ける。

北条早雲は、関東へに進出をもくろむ。永正7年(1510)権現山の戦い では両上杉氏は、共同して北条早雲にあたって破った。

敗れた北条氏は、三浦氏の新井城に攻める。永正9年(1512)、江戸城にいた扇谷上杉家の上杉朝興は、 家臣太田資康を新井城救援に差し向ける。 (太田資康は太田道灌の子)の生室は義同の娘である。) 資康は、義同を助けようと相模国中郡(当時、中郡は、餘綾郡・大住郡・愛甲郡である。)で戦うが、 早雲に敗れて江戸を目指した帰った。資康は討死したともいわれている。 この戦いで、惣社長尾氏の上野国守護代で蒼海城主の長尾忠房の嫡男で、石倉城 主の長尾憲景が戦死した。(新井城の戦い。)

永正15年(1518)に朝良が病死。朝興が当主となる。

朝興

大永4年(1524)1月、朝興の時、江戸城にいた太田資高・資定兄弟が 北条氏に寝返り、 江戸城に向かった北条氏綱を上杉朝興は高縄原(品川区)で迎え撃ったが敗れて江戸城を捨てて、 川越城に入って、再び川越城が本拠となる。

朝定・川越合戦で扇谷上杉家断絶

江戸城奪回を果たすことなく、天文6年(1537年)上杉朝興が川越城で病死し、13歳の朝定が城主となると、 川越城を小田原城の北条氏綱に襲われ、松山城に逃れる。

天文14年(1546年)7月、今川義元が侵攻してきたため氏康が伊豆・長久保城に出陣している隙をついて、山内上杉憲政は、 川越城奪還に燃える扇谷上杉朝定と古河公方足利晴氏とで川越城を包囲した。

それを聞いた氏康は、10月下旬駿河国駿東郡を義元に譲るということで今川氏と和睦し、長久保城を放棄し、11月帰陣する。 そして3月に岩槻城の扇谷上杉氏の宿老太田全鑑を味方にすることに成功し、 4月川越へ出陣し砂窪へ着陣する。

20日上杉憲政が氏康陣を攻めて、戦いが始まる。いわゆる川越合戦である。 戦いは北条氏の勝利に終わる。朝定は討ち死にし、扇谷上杉家は断絶した。 山内上杉憲政は平井城へ敗走し、足利晴氏は古河城に帰った。

北条氏、大道寺氏を城代に置く

それ以来川越城は、 4代54年間に渡り北条氏の居城となる。北条氏は大道寺氏を城代とした。 大道寺氏は鎌倉代官を兼ねていた。

大道寺氏は、初代発専−盛昌(川越城城代・鎌倉代官)−周勝−資親(周勝の弟)−政繁−直繁と続く。 政繁は嫡男直繁を川越城、次男直昌を松井田城に配した。

小田原征伐

北条氏が名胡桃城を奪取したことをきっかけに始まった天正15年(1587年) の豊臣秀吉小田原征伐では、 政繁は次男直昌とともに松井田城にいた。嫡男直繁は小田原城に入った。川越城は、養子の直英が守った。

しかし松井田城の政繁は、4月20日前田・上杉軍は降伏し、川越城も4月28日降伏した。 その後政繁は道案内を務めるが、征伐後、責任を取らされ、7月19日自害させられた。

当時

当時の城は、後の城の本丸と二の丸程度の規模であったといわれる。

江戸時代

江戸時代には、寛永4年(1627)老中酒井忠勝、寛永12年(1635)老中堀田正盛、 寛永16年(1639)老中松平信綱(知恵伊豆)、元禄7年(1694)お側用人柳沢吉保、 宝永元年(1704)老中秋元喬知などの親藩、譜代大名が城主となった。

特に松平信綱は、寛永15年(1638)の大火で焼失した城地を拡大、八郭、三櫓、十二門を持つ城とした。 城には天守閣は無く、本丸西南の隅櫓として建てられた富士見櫓は三層の櫓で、 城内第一の高所として天守閣の代わりをつとめた。高さ15メートル、幅14 メートルあったと伝えられる。城の北東の隅には二重の虎櫓、北には菱櫓があった。

忍城岩槻城とともに江戸の北の守りの城 として重要な役目を果たす。

廃城

明治4年(1871年)に廃城となり、解体撤去された。

現在

現在は本丸跡に本丸御殿(入場料100円)、本丸から少し離れたところに富士見櫓跡がある。

通りゃんせ

また、この城は童謡「通りゃんせ」の歌詞の舞台になった。本丸の前に、堀がありその前に「天神様」があった。 そして決まった日には、天神様にお参りができた。しかし城の中なので護衛付であった。 「行きはよいが、帰りはこわかった」ということであった。

行き方ほか

川越駅から約2キロ。レトロ調の「小江戸巡回バス」が走る。川越駅西口から出ている。 本川越駅、喜多院、本丸御殿、蔵の街、川越市駅などを回る。1回180円。1日 フリー乗車券は500円で乗り放題。川越シャトルバス、東武バスもある。

車なら国道254号線を東京から東松山市に向かって、案内板がある信号を左折。 ぐるっと回ると右側に市立博物館、隣に市立美術館。左折すると駐車場がある。(無料)

隣にトイレ、本丸御殿。その前が初雁公園。その中にも駐車場(無料)、売店、電話、 トイレあり。童謡「通りゃんせ」の石碑、川越城の七不思議の案内版も。

富士見櫓跡は本丸御殿に向かって左の狭い道を行く。すぐTの路にぶつかる。 そこを右に曲がり、少し行った右手にある。喜多院に行く途中にある。そこから喜多院 まで徒歩で数分。喜多院のとなりに東照宮がある。東照宮では案内人が説明してくれる。 東照宮は日曜日のみ入場門が開く(無料)とのこと。しかし門の中に入れても建物の扉 は開いていないので建物の中は見ることができない。

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