衣笠城

拡大 衣笠(きぬがさ)城は、康平5年(1062年)村岡為通が築いた。

為通は、平良文の曾孫。良文−忠頼−忠通−為通である。前九年の役で戦功を挙げた為通は、三浦郡を賜って三浦氏を名乗った。 その後三浦氏は、為継−義継−義明−義澄と続く。

二代為継は、八幡太郎義家に従い後三年の役に参加。鎌倉権五郎景政目にあたった矢を抜いた

四代義明のときの治承4年(1180年)頼朝が挙兵、三浦氏と合流するために石橋山に向かう。三浦氏も衣笠城をでて、石橋山に向かうが風雨が激しく海で行けない。 そこで陸路を行くが酒匂川が増水して渡れない。

石橋山に頼朝を迎え撃った平家の大将で鎌倉党の大庭景親は、三浦一族が足止めをくっている間に、頼朝を攻める。戦いに敗れた頼朝は、 安房に逃れる。いわゆる石橋山の合戦である。

頼朝が戦いに負けたことを知った三浦氏は、衣笠城に戻る途中、平家の畠山重忠と由比ガ浜で戦い、衣笠城に帰る。 畠山重忠らの攻撃に備えて、和田義盛は、怒田城にて敵を迎え撃つことを進言するが、 三浦大介義明は、三浦一族の本拠地である衣笠城で戦うことを決意する。

二日後、葉山の畠山城に本陣を置く畠山重忠軍三千が、衣笠城を攻める。守る将兵は総勢453名。東木戸は三浦義澄・佐原義連ら、西木戸は 和田義盛・金田頼次ら、中陣には長江義景・大多和義久らが守った。

何とか一日目の攻撃をしのいだ。その晩、義明は、三浦党全員が頼朝の後を追って安房に落ちることを唱え、義明を一人城に残して400余名は支城である 久里浜の怒田城の舟倉から安房に逃れる。翌日、娘婿の重忠に攻められ義明無念の憤死。89歳であった。

鎌倉幕府が開かれると、三浦氏は要職を占めたが、宝治元年(1247年)北条時頼により滅ぼされ、衣笠城は廃城となった。

ネットの地図など多くの地図は、衣笠城の場所が正確でない。バス停から遠く、標高も高く、大善寺からかなり歩くように見えるが、実際は大善寺が城跡。 そのすぐ裏が本丸。平素住んでいた館は、大善寺よりもさらに100メートルほど手前住宅があるところである。 大善寺には広い駐車場があるから、極端な話、城跡まで車でいける。そこから本丸跡まで徒歩1分。

JR横須賀線衣笠駅下車。駅正面を出て広い道を右へ行くと、衣笠十字路の交差点がある。地下道をとおり向こう側へ。右に少し行くと衣笠十字路の大きなバス停がある。

バスで4,5分、三つ目のバス停「衣笠城址」で下車。少し戻って信号を渡って衣笠インターの方へ。正面に衣笠城右の案内板がある。 そこを右に進むとトンネルを経て、衣笠城址前の交差点にでる。そのほんの少し先にもう一つ太田和街道入口の信号がある。そこを渡る。ここまでバス停から約7、8分。

道路に沿って狭い道がある。ほんの少し行くと、左手に案内板がある。そこを直進。(右に行かないこと)急坂を少し登ると駐車場に出る。この駐車場と大善寺は城跡。 二の丸のような役目を果たしていた。

正面右手に狭い階段の道がある。階段をほんの少しのぼるとすぐ大善寺の裏に出る。 そこに案内板がある。少し先に小さな石碑がある。

さらに少しのぼると広場があって、そこが城跡。本丸跡。大善寺のすぐ裏。ここまでバス停から徒歩約15分。

車では、県道26号線で衣笠インターへ。そこからは、電車の場合参照。

以下は注意点
・写真の石碑は広場よりも一段と高い物見台の木陰にあるので見落としがち。

・浦縦貫道の出口のトンネルを出るとT字路となる。そこを左に曲がるとすぐ行き止まりとなる。 その左手に衣笠城跡への山道がある。この山道は、駅から衣笠公園を経て 衣笠山に続くが、のぼりが長く、急坂できつい。普通の靴では無理。ハイキングのつもりで。 先に述べた道のほうがはるかに楽で、お勧め。

・なぜか衣笠インター入口の交差点は横断歩道も、歩道橋もないので、衣笠城址の方に行きたくともいけない。 はじめての人は迷ってしまう。必ずバス停から信号を一つ戻ってその信号を渡ること。

・衣笠十字路の交差点は、どこにでもある小さな交差点にもかかわらず、人は階段を上り下りして地下道を通る。 そしてその入口がまたわかりにくい。荷物を持った旅行者には極めて不便。ぜひ横断歩道を設置していただきたい。

・城跡、バス停およびその近くにトイレ等何もない。駐車場もない。近くに店もない。飲み物等持参のこと。

・駅から衣笠十字路に向かう道の右側の裏道にきれいな商店街がある。食べ物・飲み物・着るもの等なんでもある。安い。

INDEXへ