清洲城

拡大 清洲(きよす)城。

築城

応永12年(1405)頃、尾張守護職斯波義重が築いたとも、 文明10年(1478)斯波氏の尾張守護職代織田敏定(信友の養父でもある)が築いたともいわれる。

当時の尾張

尾張国は、上四郡と下四郡に分かれていた。

上四郡守護代は(岩倉織田氏)織田敏定−織田敏信−織田信安−織田信賢と続く。岩倉城を根拠としていた。

上四郡守護代は、清洲城の守護代(清洲織田氏)織田敏定−達勝−信友と続く。 清洲城を根拠としていた。達勝は、武衛様・守護の斯波義統を清洲城に置いていた。

この織田大和守家(清洲織田氏)に仕える清洲三奉行の1つである織田弾正忠家の当主織田信定がいた。 織田敏定−織田信定−織田信秀―織田信長と続く。

織田信友から織田信長へ

尾張守護職斯波氏の居館守護所は、下津(稲沢市下津町)にあったが、文明8 年(1476)その守護所が焼亡し清須城へ移転した。

清州城の守護代織田信友は、末森城の信秀の死後、末森城の跡を継いぎ、品行方正な織田信行(信勝)の家督相続を支持し、 信秀の後を継ぎ、尾張のうつけを決め込んだ織田信長と対立して信長を討とうとする。

このことを信長に知らせた尾張守護職斯波義統を、天文23年(1554)織田信友の家老坂井大膳が 守護館に討ち入り、義統を討つ。義統の長子斯波義銀は、那古野城の織田信長のところに逃げ込んだ。

弘治元年(1555)那古野城の織田信長は、尾張守護職斯波家を再興するという名目で、 叔父で守山城主である織田信光と組んで清洲城主織田信友を討ち、信長が清洲城清洲城主となり、 那古野城を信光に譲った。

他方、信長公記では、「弘治元年(1555年)叔父で守山城主である織田信光は、4月20日清洲城主織田信友を討ち、 那古野城の織田信長に与えた。 信長は清洲城主となり、信光は那古野城に入るが、同年11月26日不慮の出来事でなくなる。」 とある。

永禄4年(1561)11月2日、末森城主の弟信行を、病と偽り、清洲城に見舞いに来たところを殺害。

弘治2年(1556)謀反を企てた安祥城主の兄信広を追放。

永禄2年(1559)に岩倉城の信安・信賢(岩倉織田氏)を討って上四郡を手にし尾張を統一した。

桶狭間の合戦

尾張統一後、永禄3年(1560年)5月、信長は、尾張に攻め込んできた今川義元を、謡曲「敦盛」を舞い、清洲城を出陣していき、 桶狭間の合戦で討ち取る。

清洲同盟

清洲城はまた、永禄5年(1562年)1月15日、徳川家康の生母於大の方の兄である水野信元の斡旋により、 織田信長と徳川家康が会見し清洲同盟を結んだ。しかし最近の研究で会見はなかったという。

水野信元は長く信長に仕えたが、武田方の美濃岩村城の秋山信友に兵糧を売った疑いで信長の命により家康に殺害された。

信長、小牧山城に築き移り、織田信忠が城主に

その翌年の永禄6年(1563年)5月、信長は美濃の斉藤龍興に対抗するために小牧山に小牧山城 を築き移った後、嫡男信忠が入った。

本能寺の変

天正10年(1582年)6月2日、本能寺において織田信長が、 二条御所(旧二条城)で嫡男織田信忠が明智光秀に討たれた。

清洲会議

そして同年6月13日羽柴秀吉が山崎の合戦で明智光秀を破った後、柴田勝家、 丹羽長秀、羽柴秀吉、池田恒興、滝川一益の織田家重臣が、織田家後継者及び遺領の配分を決定するために、 天正10年(1582年)6月27日清洲城で清洲会議が開かれた。

この会期で、羽柴秀吉が三法師(3才)を織田家の後継者とした話は有名だが、同年12月25日 には三法師でなく、 織田信雄を織田家の跡継ぎにしている。

また、遺領の配分は、三法師・近江2万5千石。信雄・北近江と尾張。信包・伊賀。柴田・越前と近江の内6万石。 秀吉・播磨、山城、河内、丹波。滝川・伊勢の一部、などであった。これに不満な柴田勝家・織田信孝・滝川一益は 示し合わせて、蜂起したが、 戦いに負けて、柴田勝家・織田信孝は自害、滝川一益は追放となった。賤ヶ岳の戦いである。

織田信雄が城主に

この会議で、次男・信雄は清州城主になったが、織田家の後継者になれなかった。これに不満を持った信雄は、 家康の協力を得て、秀吉に挑む。天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いである。

天正18年(1590)秀吉の命で家康が駿府から江戸に入ると、そのあと駿府に信雄が入ることを命ずるが、 信雄は難色を示したので、清州城から烏山城(栃木県)に移された。

その後

その後、羽柴秀次、福島正則、松平忠吉、徳川義直等有名な武将の居城となった。

廃城

慶長14年(1609年)徳川家康は、豊臣秀頼の来襲の備え、名古屋に移転して新たな城を築くことを決め、 同18年に名古屋城を築き、清洲城は廃城となった。

五条川を後ろに、本丸、二の丸があり三重の掘りで囲まれた大城郭であったが、 名古屋城築城にあたって清洲城は資材として使われた。名古屋城の北西隅櫓は小天守である。

現在

現在、天守台跡には小さな祠と二つの石碑が立っている。「右大臣織田信長公古城跡碑」である。 本丸跡は清洲公園になっている。その公園の五条川を越えたところに平成元年に復元された天守 が建つ。入場料一般300円。木造4階建、その上に展望室がある。2階には信長が桶狭間出陣を 前に舞いを舞う場面が再現されている。

行き方など

JR清洲駅から徒歩約15分。案内版があり迷うことはない。清洲公園、清洲古城跡、 朱塗りの大手橋を通って天守閣へ。新清洲駅からも徒歩約15分。

車では、東名阪道路清洲東インターで降りて5分。清洲公園に駐車場あり。無料。5時閉門。

トイレは公園、天守閣の中、天守閣の隣、「ふるさとのやかた」の中にあり。「ふるさとのやかた」 は休憩所となっていて、土産物、自販機、電話、給茶器等もある。食事をするところはない。

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