古河公方

古河公方(こがくぼう)。

足利成氏−政氏−高基−晴氏−義氏と5代続く。

なお、公方の居所を「御座」「御座所」といい、居所を移すことを「移座」、居所を定めることを「御座を立てる」という。 公方の軍事力となったものを「奉公衆」、領地を「御料所」という。御両所がある地域を「公方領国」という。 公方領国には、公方が年貢を徴収する「直轄領」と家臣である奉公衆に与えた「所領」があった。

享徳の乱

五代目足利公方足利成氏は、幕府に反抗し、管領である上杉氏を憎み上杉憲忠を殺害した。 そして上杉勢追悼のために鎌倉を離れ、分倍河原で上杉氏に勝利し、村岡、古河、結城を経て上杉勢が立て篭もる 小栗城を攻めた。これを攻め落とすのに3カ月かかった。

この間に幕府は、上杉房顕・今川範忠などに成氏征伐を命じ、鎌倉は今川勢に占領された。そのため成氏は鎌倉に帰れなくなり、 古河に入った。(享徳の乱)である。

なぜ古河か

古河を選んだのは、永享の乱結城合戦で敗れて、 上杉氏に領地を没収された簗田氏、野田氏、一色氏などの「奉公衆」が成氏を頼って領地回復を狙っていたこと。

さらに、上杉氏の台頭をこころよく思わない旧来の勢力である小山氏宇都宮氏那須氏小田氏結城氏千葉氏などの領地が近いこと。

そのほか、古河は鎌倉府の「御料所」であったこと、利根川、渡良瀬川などに近く水運が発達していたこと、 鎌倉街道が通っていたことなどの地の利もあった。

支配地

長禄元年(1457年)、下河辺氏が築城した古河城を修築して古河公方御所 とし、鴻巣の館から移った。

そして関宿城に簗田氏、野田城に野田右馬助、栗橋城に野田氏、 幸手城に一色氏、菖蒲城に佐々木氏(旧金田氏)、 騎西城に佐々木氏(旧小田氏)、羽生城に広田・木戸氏などの 「奉公衆」を置いた。

その支配地は、騎西郡、太田荘から下河辺荘、幸島郡であった。 その後古河城から関宿城の間、下河辺荘内河辺(野田市)、野方(古河市)、上幸島(境町・坂東市)、下幸島(坂東市)になった。

古河公方と堀越公方の対立

足利公方が不在となったので、幕府は、長禄2年(1458年)将軍足利義政の弟政知を関東管領に任命する。 しかし上杉氏をはじめ鎌倉では政知を関東管領と認めず、鎌倉に入れない。そこで伊豆の韮山に新たに 堀越公方御所を築いた。 堀越公方の始まりである。この結果、幕府公認の堀越公方と非公認の古河公方と上杉氏が争うことになる。

古河公方と上杉氏の対立

古河公方成氏に対して、山内上杉顕定と扇谷上杉定正は、江戸城川越城五十子城などを築いて鎌倉を離れ、共同して戦った。

古河公方の内紛

二代古河公方政氏は、子の高基と、公方一管領体制をめぐって対立したとも、政氏が上杉氏と手を組むことを主張したのに対し、 高基が北条氏と親しくすること主張し対立したとも言われている。その結果、政氏は古河城を追われ、小山城、 岩槻城を経て久喜に住み、そこで没している。

古河公方と小弓公方の対立

原氏と争っていた武田信保は、古河公方足利政氏の次男の足利義明を迎える。 小弓公方である。 二代古河公方足利政氏は、先に述べたように、嫡男高基と対立することになった。そのとき、次男義明は政氏についた。 そのため、三代古河公方足利高基と小弓公方義明は敵対することになる。

天文7年(1538年)関東に攻め上ろうと足利義明、里見氏、武田氏、 酒井氏は 国府台城に陣をはった。 これに対し、小弓公方の勢力拡大を阻止しようと、原氏、北条氏らは古河公方と手を結び、 国府台近くに進軍し、第一次国府台合戦が起こる。 この戦いで足利義明は戦死、小弓城も落城して、小弓公方は滅びる。

北条氏康

天文17年(1548)4代古河公方足利晴氏は家臣梁田高助の娘との間に生まれた長男の藤氏を後継者にした。

第一次国府台合戦で小弓公方を滅ぼしたのは北条氏康の力だった。そこで氏康は晴氏に圧力をかけ、 同年12月晴氏に藤氏を廃嫡させ千代王丸(義氏)に家督を譲らせた。そして晴氏・藤氏を葛西城に移した。

天文23年(1554)7月、葛西城を脱出した晴氏・藤氏は、古河城で小山氏と相馬氏の力を借りて反旗を翻した。 氏康は、公方の家臣だった梁田、野田、一色氏らを説得し、古河城を攻め、11月に降伏させた。小山氏と相馬氏の支援はなかった。

晴氏は、相模国秦野に幽閉され、その後各所を転々とし、永禄3年(1560)栗橋城で亡くなった。

5代古河公方足利義氏の鎌倉御座所は葛西ヶ谷

永禄3年(1560)上杉謙信が前橋城を関東進出の拠点にすると、 翌年小田原城を包囲する。 上杉謙信は足利藤氏を新たな公方として認めたので、謙信の関東侵攻時には義氏は、逃亡した。
永禄4年(1561)義氏は永禄元年(1558)8月来入城していた関宿城を脱出して、 小金城へ逃げた。同年さらに佐貫城へ。

永禄7年(1564)1月第二次国府台合戦後、 義氏は永禄7年(1564)8月、鎌倉に入った。

その後、永禄12年(1569)越相同盟(越後の上杉謙信と相模の北条氏政が結んだ軍事同盟)が結ばれる。 その交渉過程で足利藤氏の扱いが話された。しかし藤氏が永禄9年(1566)に死亡していることが判明したため、 義氏が正式な5代古河公方として認められる。

永禄12年(1569)6月28日義氏は、鎌倉から古河に復帰した。(詳細は 古河公方足利義氏の鎌倉・葛西ヶ谷の館参照。)

古河公方の消滅

天正11年(1583)、義氏が男子を残さず没し、古河公方は自然に消滅した。

義氏の娘(氏姫)

その後も古河城に義氏の娘(氏姫)がいた。天正18年(1590)の 豊臣秀吉の小田原征伐の後、増田長盛に古河城の破却を命じている。 そこで、義氏の氏女は家臣等と古河公方御所(古河城)を出て、鴻巣の館に移り住んだ。

秀吉は、その後、小弓公方足利義明の孫国朝に氏女を嫁がせて 喜連川に5千石を与えた。 しかし、義明が古河公方に敵対し、第一次国府台合戦を引き起こしていることもあってか、 氏女は喜連川にはいかず、国朝が鴻巣の館を訪ねる日を送った。

国朝は2年後22歳で亡くなると、秀吉は国朝の弟である頼氏に娶らせる。 頼氏との間に4人の子をもうけるが、それでも鴻巣の館を離れず、 元和6年(1620)5月6日47歳で没する。

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