古河公方御所跡

古河公方御所(こがくぼうごしょ)跡。

古河公方の館。

江戸時代に古河城があったところに建っていたと考えられている。

古河城は、当時は、本丸、二の丸、三の丸、頼政曲輪、辰崎曲輪、丸の内曲輪、観音寺曲輪、諏訪曲輪等があり、 「本丸、二の丸、三の丸、頼政曲輪」は古河公方館(古河公方御所)跡に築かれたと思われる。

享徳の乱

五代足利公方足利成氏は、管領である上杉氏を憎み 上杉憲忠を鎌倉の西御門御所で殺害した。享徳の乱の始まりである。

憲忠を討ったのは結城成朝の家臣の金子祥永・祥賀兄弟であった。成氏は恩賞として多賀谷氏を名乗らせ、 領地として下妻荘を含む関三十三郷などを与えた。

そして上杉氏の追討のために、鎌倉を離れて、武蔵国村岡、古河、結城、小山に転戦した。この間、室町幕府は、 今川氏に成氏征伐を命じ、今川氏が鎌倉を占拠する。そのため鎌倉にもどれない成氏は康正元年(1455年)古河に入る。

鴻巣の館

そのとき最初に入ったのが古河の鴻巣の館である。

古河城

そして2年後の長禄元年(1457年)下河辺氏が築城した古河城を修築して鴻巣の館から移った。

これから豊臣秀吉の小田原征伐まで古河公方は古河城にいた。 ただ足利義氏の時、一時期鎌倉の葛西ヶ谷の足利佐間頭義氏第にいたことがある。

当時

四足門、御奏者所などがあったといわれている。 成氏が古河に入ったとき、鶴岡八幡宮の供僧4人がこれに従ったという。 成氏は古河を鎌倉に見立てて、八幡宮を建立したり、長谷寺を建てたりした。鎌倉の町衆も一部古河に移ったといわれている。

現在

その古河城跡は、渡良瀬川の改修工事で現在は河川敷の中となってしまい、何もない。 駐車場なし。河川敷の中に駐車する。トイレなし。

参考:鴻巣御所

五代古河公方足利義氏が死んだ後、天正18年(1590)の豊臣秀吉 の小田原征伐の後、増田長盛に古河城の破却を命じている。 そこで、義氏の氏女は家臣等と古河公方御所を出て鴻巣の館に移り住んだ。氏女は古河公方足利義氏の子であったので、 氏女が住んでいる鴻巣の館を鴻巣御所といった。今は公園になっている。 最後の古河公方足利義氏の墓が鴻巣の館跡にある。

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