国司



国司とは

いまでいう県知事のようなもの。任期は4年。国司が管理する土地を公領といった。国司のいる役所を国府・国衙といった。 国司はもともと天皇の命令を持って、郡司などに伝えることが任務であった。 しかし律令制の下、中央集権的国家になり、変質していった。

四度使

律令制度の下では、地方の状況を毎年、中央に知らせるため、4種類の使者を送った。 大帳使(庸調の基本台帳を持つ)、正税使(国衙の収支報告書を持つ)、 貢調使(中央にお攻める庸調の品物を描いたものを持つ)、朝集使(国衙官人の勤務評定を持つ)である。 四度使は、目以上の国司が任命されるのが、原則であった。

平安時代以降必要性が薄れ、次第に派遣されなくなり、その地方の政治を含めてすべて国司に任されることになる。 受領の台頭であり、律令制度の地方支配の変質である。

女性と奴婢は庸調はなかった。 庸や調を取るため、毎年、名前、性別、年齢、体の特徴などを描いた計帳が作られた。 しかし計帳には、高齢の女性(不正)が多くみられるようになり、 庸調の税が入らなくなった。

それで人頭税をあらため、耕地面積に賦課するようになる。 そして、国が各種帳簿を管理するのをやめ、国司にすべてを任せ、地方から国へ治める物品の数量を定め、固定化した。 租庸調のいきずまりである、受領の台頭である。

しかし国は度重なる内裏の炎上や大嘗祭などにより、諸国に頻繁にその財源を求めた。そこで国司は厳しい取り立てを行った。 その結果、公領では反乱がおこるようになった。

また、荘園は不輸不入の権があったから、荘園領主は院などに寄進し、税をのがれた。

国司の選任

国司は、守・介・掾・目に分類され、職員令によって、仕事の内容が決められていた。

国司を決める会議は、朝廷の公卿らによって、従五位の中から、3日間かけて審議し、天皇の許可を経て決定する。 任命の儀式を地目といった。国司は、地位が低かった。守は、従五位上、介は、正六位下である。

国司の特権

国司は、特権があった。一つは、営田の権利である。それで土地の領民を使って開墾した。

もう一つは出挙である。これは官による高利貸である。雑令に定められていた。 農民に大量の種籾を強制的に貸し付け、収穫時に5割の利子をとった。後に穂付きの稲を春・秋の2度貸付、秋に5割の 利息を取った。国衙運営の諸費用に充てた。このため田畑を手放す農民も出てきた。

遙任国司と在庁官人

10世紀前期、国司が任国へ赴任せず(遙任という。実際に任地に赴く国司を受領という。前任者から政務を直接受領するからである。)、 目代という代理人を現地派遣し、在庁官人に国衙を任せることが増えていった。 平将門の乱をきっかけに地方に在庁官人を置き、地元の有力層を 在庁官人に任命するという形をとって地元の有力層を地方政治に取り組んでいった。

11世紀になると、国衙による地方政治は事実上在庁官人が担うようになっており、 受領国司は在庁官人の力なしに国内統治を果たすことはできなかった。在庁官人はしばしば地元の有力豪族(武士)がなった。

院政時代の国司

11世紀末になると、国司の力では地方の武士を抑えられなくなってきた。そのため白河上皇は院政を開始した。 (いままでは、天皇は死ぬまで天皇の地位にあった。ところが摂関政治が始まると幼少で天皇につくことなった。 前の天皇を上皇といった。出家した場合法皇という。その上皇・法皇が政治を見ることを院政といった。)

院(上皇・法皇)は国司の経験者を院の近臣とした。そして彼らの意見に従って地方政治の改革をした。 それは朝廷が直接、国司と荘園の支配を目指すものであった。院の下に、院庁を置き、 院司が院庁下文を出して院の荘園(院領荘園)を支配するとともに、院の下に朝廷を置き、国司の上に知行国司を置いた。

知行国司とは

律令制の地方行政組織である国のうち、その支配権・統治権が国司以外の者に与えられた国をいう。 国司は、地位が低い者がなった。守は、従五位上、介は、正六位下である。 そのためそれよりも地位の高い者は、国司にならず、知行国主となった。

知行国主は、自分に子ら身内を国主に任命し、その任期(4年・重任可)中は、国に治める一定のもの 以外は自分の収入とした。 院政時代以降、摂政・関白などに急に普及し、平氏は全国66ヵ国中、30数ヵ国に及んだ。

知行国主の推挙で国司に任命されたものを「名国司」という。

平氏と地頭

やがて平氏が政権につくと、全国66か国中30国以上は平氏が平氏が国司を任命する知行国であった。 また平氏の荘園は500ヶ所以上あった。そして新たに地頭職をはじめて設けた。

鎌倉時代以降

鎌倉幕府は、御家人を守護・地頭職を任命することにより全国を支配しようとした。 地頭は、国衙領、荘園の下地管理権・徴税権・警察及裁判権を有していた。これを武器に国衙領、荘園の領主権を侵していった。 さらに地頭は地頭請や下地中分などにより、権限を増していった。

また国衙の在庁官人は租税を徴税するために大田文を作成・保管していたが、 鎌倉時代になると、その権限を守護が得るようになった。

また竃浦時代の末期には主語は、「守護請」といって、荘園、公領の年貢の徴収と納入を請け負った。

建武の新政では、朝廷は国別に、国司と守護の2人を配置し、互いに競わせた。

しかし室町時代になると武力を伴う守護は、国司を圧倒し、領主化して、守護の住む守護所は国衙にかわり一国の中心となった。 地頭は守護に組み込まれてゆき、守護代の下の郡代などになっていく。

このようにして国司の地位は守護により低下していった。

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