皆川城跡

拡大 皆川(みながわ)城跡。

築城

応永23年(1416年)から永享12年(1440年)頃、会津田島から皆川庄に移った長沼秀宗によって築かれたといわれている。

長沼本家の断絶

長沼氏は、本家は、歴代二宮の長沼城に住んでいて、本家は12代成宗のとき、康正元年(1455年)、 足利公方と関東管領上杉氏が戦った 享徳の乱で、上杉氏に味方した。 そのため、文明年間(1469〜87年)古河に入った古河公方に攻められて断絶した。

長沼傍流である皆川氏

しかし、長沼氏の一族の中には足利公方に味方した者もいた。次郎である。次郎とは長沼氏秀のことである。

その系統は、長沼宗政−時宗−宗泰(から長政にいく流れが本家)−秀行(会津田島へ)−宗秀−宗行−秀直−義秀−満秀−憲秀− 長沼秀宗(皆川へ)−長沼氏秀−皆川宗成−成勝−俊宗−広照−隆庸と続く。

長沼宗政

初代長沼宗政は、淡路守と称し、一の谷の合戦奥州征伐承久の乱でも活躍し、南会津郡や安積郡に所領を広げて、 会津田島を奥州における本城としていた。

長沼秀行、会津田島へ

また、鎌倉時代末期、元弘3年(1333)関東勢の一員として千早城攻撃に活躍した長沼秀行は、 長沼荘や陸奥国の地頭職となって、会津田島に住んだ。

長沼秀宗、皆川庄へ

氏秀の父長沼秀宗は、永享元年(1429年)会津田島から皆川庄に移って皆川城を築いた。

なお、秀宗以降を第二次皆川氏といい、第一次皆川氏と区別している。第一次皆川氏は、長沼宗政−時宗から−皆川宗貞− 宗長−宗景の流れをいい、宗景で終わっている。

そして、鎌倉に屋敷を構えた。永享10年(1438年)長沼秀宗は、父憲秀の代参として江の島に参拝した。この途中鎌倉の腰越で怨敵足利将軍足利義教に会い、 切りかかるが、警護の武士に討たれたという。しかし足利義教が腰越に来た事実はない。

永享10年(1438年)長沼秀宗は、足利公方足利持氏が幕府にそむいて反乱を起こし、敗れて鎌倉永安寺で自害した時、 持氏に味方した秀宗も自害していたという説もある。(永享の乱)

長沼氏秀

これにより、平川城にいた氏秀が皆川城に入る。したがって氏秀以前に皆川城は築かれたといえる。 平川城は、永享7年(1435)に皆川孫四郎氏秀が皆川城の別城として築いた。氏秀は、鎌倉に屋敷を構えていたが、 隠居して皆川庄に戻った。

皆川宗成

その子(長男)宗成が文明12年(1480)に皆川城主となる。皆川氏を名乗る。皆川宗成−成勝―俊宗―広照と続く。

宗成の時、大永3年(1523年)宇都宮城の宇都宮忠綱と戦う。川原田合戦である。 鹿沼教清を滅ぼした忠綱は、粕尾、粟野、久野、深窪、真名子、大柿を奪って、宿敵皆川宗成を討とうと、1800騎で 皆川を攻めようとした。これを聞いた宗成は川原田に陣を引いた。
皆川氏に加勢した小山氏結城氏は、鹿沼城を取り戻し宇都宮勢の背後に回った。 正面から皆川勢、壬生勢と、囲まれた宇都宮忠綱はやっとの思いで、宇都宮に逃げ帰った。この戦いで宗成流れ矢で死亡、 平川城主の次男成明が討死し、平井城は廃城となっている。
その場所が栃木市の北に「合戦場」としていまに名を残している。これにより深窪、真名子は、皆川氏のものとなった。

皆川成勝

皆川氏は古河公方ともきわめてよい関係にあった。宗成の子の成勝は、古河公方足利晴氏の要請で、 結城氏とその家臣多賀谷氏の戦いで、結城氏を救援した。 また、天文16年(1547年)4月川越夜戦でも古河公方晴氏に従って北条氏と戦っている。
永禄9年(1566年)北条氏政に攻められるが撃退している。

皆川広照

天正4年(1576)に兄の広勝が29歳で急死したことから広照が家督を継いだ。

その後古河公方は衰退し、北条氏が台頭してくる。天正6年(1578年)に再度、北条氏政に攻められるが撃退している。

天正13年(1583)、宇都宮国綱1万3千は、皆川を攻めたが、皆川軍の小倉主膳乃介の活躍で清瀬川で敗北する。 それ以来、清瀬川を小倉川(現在は思川)という。

壬生氏佐野氏足利氏 等がすべて北条氏に従うことになった中で、残った皆川氏を天正13年(1585年)北条氏直軍1万8千が襲う。 皆川広照は若倉山において100日間退陣し、これを退却させた。(草倉合戦)その時の戦闘は激しく多くの戦死者を 祀った千人塚が残る。
このとき、北条氏の親戚である佐野氏が皆川城の属城である粟野城を落しているが、 広照は天正16年(1588年)粟野城を奪い返している。

天正14年(1586年)豊臣秀吉と対立する徳川家康は北条氏との連携を強める。 皆川広照と親交があった徳川家康の勧めで北条氏と和解した。

北条氏についた皆川氏を天正16年(1588)宇都宮国綱が叔父の佐竹義重と1万5千で攻めた。 皆川勢3千は、たちまち諏訪山城、高谷城を落とされ、布袋が城に迫った。この戦いで血が川のように流れ、川は血で染まった。 この川を赤血川といった。後の赤津川である。
結局、布袋が城を落ちた。城主の柏倉兵部左衛門は戦死。丁度その時、国綱の元に、北条氏側の「壬生、小山、結城氏が留守の宇都宮城を攻め ようとしている」という話があり、国綱は急遽宇都宮城にもどった。

皆川広照は、天正18年(1590年)の豊臣秀吉の小田原征伐では、小田原城に入る。 竹ヶ鼻口の警護に当たっていたが、徳川家康の勧めで4月8日夜出奔。降参して秀吉に下る。

皆川城は、広照不在の間に、秀吉旗下の上杉、真田軍に粟野城ともども落されていたこともあり、天正19年(1591年)には 栃木城を築城、皆川城は廃城となる。

当時は

本丸、西の郭、東の郭等があった。ふもとには館があった。

現在は

現在は、館跡は駐車場、桝形には皆川公民館が建つ。その西には土塁、西から南西には濠が残る。そのほか、井戸の跡、 土塁、武者走り等が残る。

行き方ほか

皆川城は、栃木駅から遠いので車が便利。75号線を佐野市に向かって東北道を越えて約2百メートル。 Yの字になる。「金剛寺」の看板がある。そこを右に。少し行って右に曲がると正面に皆川公民館がある。

公民館の右手に写真の案内板がある。そこから登る。現在公園として整備中。 すぐ近くに金剛寺がある。皆川氏の菩提寺で、歴代皆川氏の墓がある。

公民館の右隣にトイレあり。食事をするところない。電話、売店なし。公民館に大きな駐車場あり(無料)。

栃木城は、JR両毛線、東武日光線栃木駅より徒歩約10分。トイレ等なし。

粟野城は、車利用。粟野町の中心。案内板あり。駐車場、トイレあり。粟野に行ったときはぜひ深窪の「宮入そば」でおいしいそばを。 ただし、店はきれいでない。

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