皆川城

拡大 皆川(みながわ)城は、応永23年(1416年)から永享12年(1440年)頃、 皆川秀宗によって築かれた。

本丸、西の郭、東の郭等があった。ふもとには館があった。

現在は、館跡は駐車場、桝形には皆川公民館が建つ。その西には土塁、西から南西には濠が残る。 そのほか、井戸の跡、土塁、武者走り等が残る。

皆川氏は、小山城の城主小山五郎宗政の孫の長沼宗員が皆川荘を支配し、 皆川の姓を名乗ったことに始まる。

大永3年(1523年)宇都宮城の宇都宮忠綱と戦う。川原田合戦である。 城主皆川宗成と弟の成明が討死している。その場所が栃木市の北に「合戦場」としていまに名を残している。

永禄9年(1566年)天正6年(1578年)に北条氏政に攻められるが撃退している。

その後、壬生氏佐野氏 足利氏等がすべて北条氏に従うことになった中で、残った皆川氏を天正13年(1585年) 北条氏直軍1万8千が襲う。皆川広照は若倉山において100日間退陣し、これを退却させた。(草倉合戦) その時の戦闘は激しく多くの戦死者を祀った千人塚が残る。

このとき、北条氏の親戚である佐野氏が皆川城の属城である粟野城を落している。 しかし広照は天正16年(1588年)粟野城を奪い返す。

天正14年(1586年)豊臣秀吉と対立する徳川家康は北条氏との連携を強める。皆川広照と親交があった 徳川家康の勧めで北条氏と和解した皆川広照は、豊臣秀吉の小田原攻めでは、小田原城に入る。 竹ヶ鼻口の警護に当たっていたが、徳川家康の勧めで4月8日夜出奔。降参して秀吉に下る。

皆川城は、広照不在の間に、秀吉旗下の上杉、真田軍に粟野城ともども落されていたこともあり、 天正19年(1591年)には栃木城を築城、皆川城は廃城となる。

皆川城は、栃木駅から遠いので車が便利。75号線を佐野市に向かって東北道を越えて約2百メートル。 Yの字になる。「金剛寺」の看板がある。そこを右に。少し行って右に曲がると正面に皆川公民館がある。

公民館の右手に写真の案内板がある。そこから登る。現在公園として整備中。 すぐ近くに金剛寺がある。皆川氏の菩提寺で、歴代皆川氏の墓がある。

公民館の右隣にトイレあり。食事をするところない。電話、売店なし。公民館に大きな駐車場あり(無料)。

栃木城は、JR両毛線、東武日光線栃木駅より徒歩約10分。トイレ等なし。 粟野城は、車利用。粟野町の中心。案内板あり。駐車場、トイレあり。 粟野町には有名な「宮入そば」店がある。

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