長江家中燕碑

拡大 箱森長江氏は、皆川氏に仕え皆川城 の西側に館を構え住んでいたという。 その後、皆川城が廃城となったときに現在の箱森町に移り住んだ。

長江家中燕碑の内容

箱森町の長江氏の庭に写真の「長江家中燕碑」が建っている。その裏面には、鎌倉権五郎景将から五郎作にいたる 系図が書かれている。内容は次の通りである。

平氏の末裔鎌倉権五郎景将−景明(摂津国長江倉橋雨庄ノ地頭職) −長江太郎義景−(十六代ノ孫)−景澄(箱森村長江家ノ始祖) −景貞−将家−重久−源八−源八−浅右衛門−ユ左衛門− 源兵衛−源八−九左衛門−九左衛門−五郎作(大正15年2月11日嗣子定市郎建立)

この系図はいくつかの重要なことを示唆している。
一つは、箱森長江氏は、義景十六代景澄にはじまること。
二つ目は、長江義景の父が景継でなく景明であること。
三つ目は、景政の子に、景長と景明がいて景継の名がないこと。
四つ目は、景明が摂津国長江倉橋雨庄の地頭職であること。
である。

景明については、「長江家中燕碑」のほかに、「長江氏の系図 相模風土記(不破郡史より一部補充)」 (増補改訂版 鳴瀬町誌)に、景政の子として「景明」とあることから、存在していたことは たしかであろう。

承久の乱の原因となった長江倉橋雨庄の地頭職は、長江義景の子の長江明義

源頼朝の挙兵を助けた長江太郎義景、その父親が摂津国 長江倉橋雨庄ノ地頭職に付くのはどうかという疑問があるが、 平清盛保元の乱平治の乱で勝利し、武家政権を確立したときから、清盛は全国に地頭を置いた。 摂津国長江倉橋雨庄の地頭職となっても不思議ではない。

摂津国長江倉橋雨庄の地頭職をしていた景明の子長江義景は、源頼朝の御家人として信頼が厚かった。 義景もおそらく長江倉橋雨庄の地頭職を受け継いだであろう。そしてその子明義のときに、 承久の乱が起きている。

承久の乱は、鎌倉幕府が新しい将軍として雅成親王を迎えたいと後鳥羽上皇に申し出た事に対して、 上皇は愛妾亀菊の所領である摂津国長江荘倉橋荘の地頭職の撤廃を求めたことに発する。

その時の長江倉橋雨庄の地頭職は、当時の執権北条義時と言われている。 承久記に、「此処(長江倉橋庄)は、故右大将家(源頼朝)より、太夫殿(北条義時)の給わりし所なれば…」と ある。しかし時の執権義時本人に対して上皇が地頭職を変われというであろうか。

また、上皇の要求に対し、義時は、「地頭は平家追討の恩賞として故右大将(源頼朝)が与えたものだ。 戦いで一族・郎等を亡くした者もいる。それなのにさしたる落ち度もないのに、私の計らいで改易できようか」 と言っている。もし義時自身が長江荘倉橋荘の地頭職なら、そのようないい方をするであろうか疑問が残る。

私は、承久の乱当時の長江倉橋雨庄の地頭職は、長江義景の子の長江明義であると思っている。

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