長江太郎義景



長江太郎義景(ながえたろうよしかげ)。

源頼朝の御家人。はじめて長江氏を名乗った。長江氏の祖。葉山郷の長江館に住んだ。

吾妻鏡養和2(1182)年2月8日条に、「鎌倉権五郎景政の三代の孫が義景である」 と書いてあることから、義景が景政の孫であることは明らかである。

義景の父は景明である。箱森長江氏長江家中燕碑 に書かれた系図によれば、義景の父景明は、摂津の国長江倉橋雨庄の地頭職をしていた。 義景はそこに住んで長江氏を名乗った、という。

景明は娘を衣笠城の三浦義明の嫡男三浦義宗の妻とした。 また、義景には三浦義明の娘を娶らせた。

そして義景は三浦氏と行動を共にすることになる。そして頼朝が鎌倉に幕府を開くと御家人として頼朝に仕えた。

義景は長江氏の菩提寺として福厳寺を草創した。現在の福厳寺である。 奥藪の墓地の入口岩窟に義景夫人の墓と伝えられる五輪の塔がある。 また、殿谷戸に福厳寺が管理する写真の義景社が建ち、 その裏の岩窟に五輪の塔が三基ある。

義景の子には、師景、明義、景行がいた。そして子孫は、 相模国・葉山、相模国・深沢、 下野国・箱森、奥州・深谷、 美濃国・今須、尾張国・品野など 全国にいる。

義景の時代の長江氏の家紋は、揚羽蝶であった。これは桓武平氏の家紋である。

義景について、吾妻鏡に次のように書かれている。

治承4年8月26日の条
畠山重忠、平氏への恩と由井の浦戦いの汚名をそそぐため三浦一族を攻める。 衣笠城の 東木戸口は三浦義澄・義連、西木戸は和田義盛・金田重長、中陣は長江義景・大和田義久等が守った。

養和2年2月8日の条
(頼朝)御願書を伊勢大神宮に奉ずる。長江太郎義景、神寶奉行として首途す。 義景が先祖権五郎景政、大庭御厨を神宮に寄せ奉る。 かの三代の孫、もっとも神慮に相叶うべきかの由、 ご沙汰を経られ、その撰に応ず。

(解説)
源頼朝が四海泰平、万民豊楽のため、御願書を伊勢神宮に奉ずることとなった。長江義景が神寶奉行 として出発した。 義景の先祖鎌倉権五郎景政は、永久五年十月二十三日、私領相模の国大庭御厨を 伊勢神宮に奉った。 その三代の孫の義景がもっとも神慮に叶っているとの御沙汰があって撰ばれた。 (御願書の内容が詳しく書かれている)長江太郎義景が鎌倉権五郎景政の三代の孫であることがわかる。

文治元年10月24日の条
今日は、南御堂供養を遂げられる。御家人の中、殊なる健士を差し、警護す。随兵十六人。・・・長江太郎義景・・・。

(解説)
勝長壽院落慶供養に頼朝が臨み、御家人中、特にすぐれた者をその警護に選んだ。 随兵畠山重忠以下14人。 御後源頼兼以下22人。随員16人。その5人目に長江太郎義景がいる。

文治3年8月15日の条
鶴岡の放生会なり、本日の流鏑馬、一番手 射手 長江太郎義景・・・。

(解説)
鶴岡の放生会の流鏑馬で一番手の射手として長江太郎義景の名がある。このときはじめて流鏑馬が催された。 これ以降毎年行われるようになった。その一番射手であった。 二番射手伊澤信光(武田信光のこと)、 三番射手下河辺行平、四番射手小山千法師丸、五番射手三浦義村という そうそうたるメンバーであった。

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