長江太郎義景

長江氏の祖。鎌倉権五郎景政の三代の孫。

長江義景(ながえよしかげ)が景政の子孫であることは、吾妻鏡 養和2(1182)年2月8日条に、「義景の先祖が鎌倉権五郎景政であり、鎌倉権五郎景政の三代の孫が義景である」と 書いてあることから明確である。

「御霊宮略記」によれば、良文−忠通−景成−景政−景継とある。良文の住まいは、宮前御霊神社があるところで、 忠通の時にその南の地に固館を構え、景継まで住んだ、とある。 また同略記によれば、坂下村の御霊宮は、鎌倉太郎景継始請とあり、長江村の御霊宮は、長江次郎始請とある。 このことから、景継が坂ノ下に館を構えて鎌倉氏を名乗っていたこと。義景が長江村にを構えて長江氏を 名乗っていたことがわかる。

景政から義景に至る系図としては、三浦系図などは、景政ー景継−義景となっている。一代が景政、二代の子が景継、三代の孫が義景という考えである。 しかし、景政−景継−□ー義景という説もある(神奈川県史)。一代目が景継、二代目が□、三代目が義景という考えである。 □については、不明である。私は、もしこのような考えに立つとしたら、この□は、長江家中燕碑に書かれた 「景明」ではないかと考えている。

長江家中燕碑などを見ると、景政には、嫡男景明、次男景継、三男景長がいたように見える。そして義景は景明の子であると考えられる。

義景の妻は、衣笠城の三浦義明の娘である。義景の妹は杉本城の杉本義宗(三浦義明の嫡男)の妻であり、 嫡男が別当の和田義盛、次男が義茂である。

義景は、先祖の霊を慰めるため葉山町長江に御霊神社を建立した。その神社は今も残る。 坂下村の御霊神社の次に大きな立派な神社で、他に類を見ない。長江太郎義景が景政の直系であることを伺いすることができる。

義景はまた、長江氏の菩提寺として福厳寺を草創した。現在の福厳寺である。 奥藪の墓地の入口岩窟に義景夫人の墓と伝えられる五輪の塔がある。 また、殿谷戸に福厳寺が管理する写真の義景社が建ち、その裏の岩窟に五輪の塔が三基ある。

義景の子孫として、相模・長江氏、下野・箱森長江氏、奥州・深谷長江氏、美濃・今須長江氏、尾張・品野長江氏などがいる。

相模・長江氏
相模・長江氏は、義景の後、明義と師景がいた。明義の系統は義重と続いたが、義重のとき、三浦合戦で三浦氏につき、 北条氏と戦って討死、途絶えた。他方師景には、景光と景秀がいた。景光系統は、景泰−景信−景朝と続き、 景秀系統は、頼秀、景通と続いた。鎌倉末期に長江政綱が北深沢の地頭であったといわれていることから、 長江一族は、鎌倉末期まで依然として鎌倉の近くで地頭職として勢力を保っていたことがわかる。 しかしその後長江氏は、文献に見られなくなる。下野に移ったからと思われる。下野・箱森長江氏である。

下野・箱森長江氏
義景の末裔は、栃木市皆川に移り、館を構えた。箱森長江氏である。 戦国大名皆川氏に仕え、勢力を誇った。現在も続いている。

奥州・深谷長江氏
義景は頼朝の藤原秀衡攻めに従軍し、戦功により奥州桃生郡深谷郷をも受領し、子を配した。 深谷長江氏の始まりである。深谷長江氏は、長江氏矢本氏三分一所氏に分かれる。 長江氏は月鑑斎の時、伊達政宗に滅ぼされ、矢本氏も長江氏の内部争いで滅亡。三分一所氏のみが現在まで続いている。 長江月鑑斎の姉が相馬義胤に嫁入りし、相馬氏、佐竹氏にもその血が受け継がれている。

美濃・今須長江氏
師景の子秀景は、承久の乱後、相模の国から美濃の国居益(今須)に移った。 今須長江氏の始まりである。今須長江氏は、守護代になるが同じ守護代の斉藤妙椿に攻められ、 多くが討死したが、利景が尾張に落ち延び尾張・品野長江氏となった。

尾張・品野長江氏
利景は、尾張春日井郡の落合城の近くに潜み、桑下城を築いて移った。尾張・品野長江氏である。 桑下城の長江利景は、文明十四年(一四八二年)阿弥陀ヶ峰城を築き、今村城主の松原広長と 大槙山・安土坂・若狭洞で戦い勝利を得で、瀬戸市一帯を手中にした。その後、徳川、織田、蜂須賀氏 に仕えた。

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