長江太郎義景

長江氏の祖。鎌倉権五郎景政の三代の孫。

長江義景(ながえよしかげ)が景政の子孫であることは、 吾妻鏡の養和2(1182)年2月8日条に、「義景の先祖が鎌倉権五郎景政であり、 鎌倉権五郎景政の三代の孫が義景である」と書いてあることから明確である。

「御霊宮略記」によれば、良文−忠通−景成−景政−景継とある。良文の住まいは、 宮前御霊神社があるところで、忠通の時にその南の地に 固館を構え、景継まで住んだ、とある。

また同略記によれば、坂下村の御霊宮は、鎌倉太郎景継始請とあり、 長江村の御霊宮は、長江次郎始請とある。このことから、景継が坂ノ下に館を構えて鎌倉氏を名乗っていたこと。 義景が長江村にを構えて長江氏を名乗っていたことがわかる。

治承4年(1180年)源頼朝は伊豆で平家打倒を叫んで挙兵し、三浦氏と合流するため、石橋山へ向かう。 一方衣笠城の三浦義澄も、頼朝に合流すべく石橋山に向かう。 海が荒れていって舟が使えないので陸路向かうが、酒匂川が増水して渡れない。

衣笠城に戻った三浦氏を平家方の畠山重忠、河越重頼、江戸重長らが攻めた。 三浦方は三浦大介義明、義澄、和田義盛、金田頼次、長江義景、大多和義久らが応戦したが、 戦い利あらず、義明は一人残って他の人を落ち延びさせ、衣笠城は落城した。

その後、義景は、源頼朝と行動をともにし、鎌倉幕府創建の功臣となった。 将軍源頼朝に使え、将軍から代参を命じられ、伊勢大廟神宝奉行となったり、 鶴が丘八幡宮放生会の流鏑馬には、将軍の命で第一射手を担う程であった。 (以上、吾妻鏡から引用)

義景は、先祖の霊を慰めるため葉山町長江に御霊神社を建立した。 その神社は今も残る。坂下村の御霊神社の次の大きな立派な神社で、他に類を見ない。 長江太郎義景が景政の直系であることを伺いすることができる。

義景はまた、長江氏の菩提寺として福厳寺を草創した。現在の福厳寺である。 奥藪の墓地の入口岩窟に義景夫人の墓と伝えられる五輪の塔がある。また、殿谷戸に福厳寺が管理する写真の 義景社が建ち、その裏の岩窟に五輪の塔が三基 ある。

相模・長江氏
相模・長江氏は、義景の後、明義と師景がいた。明義の系統は義重と続いたが、義重のとき、三浦合戦で三浦氏につき、 北条氏と戦って討死、途絶えた。他方師景には、景光と景秀がいた。景光系統は、景泰−景信−景朝と続き、 景秀系統は、頼秀、景通と続いた。鎌倉末期に長江政綱が北深沢の地頭であったといわれていることから、 長江一族は、鎌倉末期まで依然として鎌倉の近くで地頭職として勢力を保っていたことがわかる。 しかしその後長江氏は、文献に見られなくなる。下野に移ったからである。下野・箱森長江氏である。

下野・箱森長江氏
義景の末裔は、栃木市皆川に移り、を構えた。箱森長江氏である。 戦国大名皆川氏に仕え、現在に至っている。

奥州・深谷長江氏
義景は頼朝の藤原秀衡攻めに従軍し、戦功により奥州桃生郡深谷郷をも受領し、子を配した。 深谷長江氏の始まりである。深谷長江氏は、長江氏矢本氏三分一所氏に分かれる。 長江氏は月鑑斎の時、伊達政宗に滅ぼされ、矢本氏も長江氏の内部争いで滅亡。三分一所氏のみが現在まで続いている。 長江月鑑斎の姉が相馬義胤に嫁入りし、相馬氏、佐竹氏にもその血が受け継がれている。

美濃・今須長江氏
師景の子秀景は、承久の乱後、相模の国から美濃の国居益(今須)に移った。 今須長江氏の始まりである。今須長江氏は、守護代になるが同じ守護代の斉藤妙椿に攻められ、 多くが討死したが、利景が尾張に落ち延び尾張・品野長江氏となった。

尾張・品野長江氏
利景は、尾張春日井郡の落合城の近くに潜み、桑下城を築いて移った。尾張・品野長江氏である。 桑下城の長江利景は、文明十四年(一四八二年)阿弥陀ヶ峰城を築き、今村城主の松原広長と 大槙山・安土坂・若狭洞で戦い勝利を得で、瀬戸市一帯を手中にした。その後、徳川、織田、蜂須賀氏 に仕えた。

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