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小田城
小田(おだ)城は、12世紀末八田知家によって築かれた。知家は常陸国の守護となり、建久6年(1193年)には、多気義幹を滅ぼし、常陸国南部を勢力に治めた。 4代時知の時小田を名乗る。7代治知の時に南朝に味方する。治知は関東の勢力を味方にするため 関東に来た南朝の北畠親房を小田城に迎え入れ、南朝の中心として活躍する。 しかし、北朝方の高師冬に制圧され、常陸国の守護職を奪われ、領地を減らされてしまう。 北畠親房は関城に逃げ、そこで神皇正統記を完成させる。 戦国時代は、小田氏は佐竹氏と対立し、北条氏につく。 永禄12年(1569年)時の当主小田天庵は、真壁氏に奪われた領地を取り返すべく、 1千の兵で梶原政景が守る柿岡城の周辺を焼き払い、出陣手這(てばい)坂の坂上に陣を張った。 一方、わずかな兵しか持たない梶原政景は、片野城の父太田三楽斎、 真壁城の真壁久幹氏、佐竹義重に援軍を求め、 両軍は、手葉井山の手這坂で対峙した。 小田天庵は、重鎮の反対にもかかわらず、牛久城の岡見弾正正忠治資を先頭に坂を駆け下る。当初は優勢であったが、 治資が討たれると後退、小田城に逃れたが、その城もすでに真壁勢に奪われていて入城できず、小田城の支城の 土浦城に逃れる。この戦いを「手這坂の合戦」という。その後小田氏は急速に勢力をなくし、 北条氏滅亡に合わせて小田氏も滅ぶ。 佐竹義重は、岩槻城を嫡男に奪われ、片野城主であった太田資正(三楽斎) の次男、梶原政景を小田城代にした。この時代に城は整備された。本丸を中心に三重の堀、 土塁で囲まれた平城で、面積が21ヘクタールもあった。しかし、慶長7年(1602年)佐竹氏が秋田に 国替になり廃城となった。 現在は、本丸跡に土塁と「史跡神皇正統記起稿の碑」がある。国指定史跡。かつては城の中を鉄道が走り、 駅まであった。 国道125号線を小田の町の方に曲がって道なりに行く。正面に小さな神社がある。左にカーブして 直進する。突き当たりを右に。車1台がやっとの細い道。しばらくいくと右手に幼稚園がある。その前。 駐車場はないが広い広場がある。トイレ、電話、食事するところない。 |