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桶狭間の合戦 −桶狭間山は漆山−尾張の情勢天文22年(1552年)尾張と三河の境にあった鳴海城の城主山口左之助は、 若干19歳で織田家当主となった織田信長を見限って今川義元に寝返った。 そしてすぐ近くにある織田方の大高城を襲い、大高城も今川勢の勢力下 に入れた。付城を築城尾張が不安定な状況を見て取った義元は、永禄2年(1559年)本格的に尾張に進出するため戦いの準備を 進めていた。これを察知した織田信長は、同年、東海道沿いの今川方の鳴海城の付城として丹下砦、 善照寺砦、中島砦を築いた。 また、大高街道の国境にある今川方の大高城の付城として丸根砦、 鷲頭砦を築いた。他国からの来敵は、国境で討て信長は義元が大高城か鳴海城のいずれかに入ると考えていた。 しかし大高城あるいは鳴海城に入られたら義元を討つ事はできない。 そこで城に入る前に桶狭間近辺で迎え撃つ作戦を立てていた。 桶狭間の戦いは織田信長によって五つの砦を築いた時にはすでに信長の頭の中にあった。 父織田信秀から、「戦は国境で行うもの」(桶狭間合戦図より)と教えられていたのである。軍議を開かなかったわけもし、義元が大高道を通って大高城に向かうなら、鷲頭砦、丸根砦を通って襲う。 東海道を通って鳴海城に入るつもりならば丹下砦、善照寺砦、中島砦を伝って襲うことを考えていた。 信長は、清洲城でどちらのルートで義元を討つか、義元の出方を見ていた。 だから出陣の前に清洲城で軍議を開いて重臣たちの意見を聞くことはしなかった。既定方針に沿ってで、鷲頭砦、丸根砦が攻められた報告を受けた信長は、両砦の落城は必至と考え、 丹下砦、善照寺砦、中島砦を伝って義元を襲う方法しかなくなったことを知り、 これらの砦が落とされる前に、わずかな手勢を従えて熱田神社に向かった。前例があった単騎出陣と熱田神宮信長は、わずかの部下を率いて清州城を立ったが、これには前例があった。 吾妻鏡承久3年(1221年)5月21日の条によれば、「上洛して朝廷と戦うと決めて日が立ったので、異議が出た。 時間が経つと心変わりする者がでてくる。今夜中に武州(泰時)一人でも鞭を掲げて急行するならば東国武士は全て雲が龍になびくように 従うでしょう、と大江広元がいった。」とある。そこで、執権北条泰時はその夜門出して稲瀬川の藤沢清親宅に泊まった。翌日京に向けて出発した。軍勢18騎だった。 それが25日には総勢19万に膨れ上がり、東海、東山、北陸道から京に攻め登って勝利を得た。いわゆる承久の乱である。 この時の信長は、もし籠城したら見方から裏切りが出て落城は必至と読んだのではないか。 そこで部下に考える隙を与えず城をでて、熱田神宮まで比較的ゆっくり進んでいる。 そして熱田神宮で部下が集まるのを待った。 これも吾妻鏡とそっくりである。「執権北条泰時はその夜門出して稲瀬川の藤沢清親宅に泊まった。」という。 そこで味方が集まるのを待った。 はたして信長が泰時の行動を知っていてそれを参考にしたかどうかはわからないが、 承久の乱は有名な事件だし、徳川家康は吾妻鏡を愛読していたというから、 信長が承久の乱の際に執権北条泰時が取った行動を知っていても不思議ではない。 熱田神宮での情報収集熱田神宮ではまた、義元や鳴海城の動き、鷲頭砦、丸根砦を落とした今川軍の動きに関しての情報収集に 全力を挙げていたに違いない。そして鷲頭砦、丸根砦に煙が上がっているのを見て落城を知り、 丹下砦、善照寺砦、中島砦が敵の攻撃にさらされていないことを確認して、 既定方針通り丹下砦から善照寺砦に入った。既定方針に沿って善照寺砦で軍兵を立て直し、善照寺砦から中島砦に進軍する時も家臣の猛反対を退けて 既定方針通り中島砦に入っている。中島砦で、義元が桶狭間にいる報告を受けた信長は桶狭間に向かった。 そのときも、信長の進軍を思いとどまるよう言った。しかしこのときも振り切っている。 すべて信長が前もって考えていたことであった。義元の進軍永禄3年(1560年)5月12日、準備の整った今川義元は駿府城を出発、 13日掛川城、 14日引馬城、15日吉田城、 16日岡崎城、 17日知立城、18日沓掛城に入った。 義元に属していた徳川家康は18日兵糧を大高城に運び込んだ。19日には家康が丸根砦を落とし、 朝比奈泰能(朝)が鷲頭砦を落とした。桶狭間の場所沓掛城を出た今川義元は、4万5千の兵を率い、桶狭間山で人馬に休息を与えていた。 桶狭間山はどこにあったのか。代表的な説として次の五つがある。1、漆山説 2、沓掛町田楽ヶ窪説 3、桶狭間古戦場跡説 4、桶狭間古戦場公園説 5、64.9mの山説。 1、漆山説 (1)桶狭間図(逢左文庫)による。この図に義元の本陣が漆山にあることが書かれている。 (2)信長公記によれば、「5月19日の正午、義元は、北西に向けて兵の備えを立て」とある。 漆山から見ると、善照寺砦、中島砦は北西になる。義元は善照寺砦、中島砦と対峙して兵を置いていた。 (3)信長公記によれば、信長が善照寺砦に来たのを知った佐々勝道、千秋四郎が今川勢に攻め込んだが 逆に討たれた。「義元はこれを見た」とのこと。この戦いを見ることができる場所は、漆山しかない。 義元と信長は極めて近い距離で対峙していたことになる。このことは次のことからもわかる。 (4)信長公記によれば、信長が善照寺砦から中島砦に移る際、家老衆が「少人数の様子が敵方から 丸見えになってしまいます。」とある。つまり、敵陣から中島砦を見えるのは、漆山しかない。 (5)信長公記によれば、中島砦を出た信長は、敵の前衛部隊路戦い、敵の首を取ってきた前田又左衛門 などの話を聞いている。おそらく敵の布陣を訊ねたのであろう。 そして桶狭間への進路に関しては、「山際まで軍兵を寄せられた」としか書いていない。山中を遠くまで 進軍した様子は見えない。中島砦を出た信長軍は、(漆山の北西であるに母呂後に展開する今川軍を避け、) 東海道の山沿いに進んだ。それが「山際まで軍兵を寄せられた」という意味であろう。 (6)漆山を当時は桶狭間山と呼んでいたかどうか。三河物語によれば、 「鳴海桶はざま」とあり、桶はざまが鳴海にあることを伝えている。 (7)徳川盛隆記によれば、「敵今朝勝軍シテ甚誇り鳴海・桶迫(おけはざま)へ兵糧オ遣シ・・・。」 とある。桶迫が鳴海にあったことになる。 2、沓掛町田楽ヶ窪説 信長公記の「沓懸の峠」が関係している。 信長公記によれば、信長軍は、沓懸の峠の下の松の根元にある大きなくすの木が雨風で倒された ことを、「このたびの戦いは熱田大神宮の神軍であるのか」と口々に言ったとのこと。 つまり信長軍が沓懸の峠を通って、義元を襲ったということにある。その峠があるところである。 そこには、今も「田楽ヶ窪」があり、「峠前」という地名が残る。鎌倉街道の近くである。 戦人塚が近い。このことから、信長が鎌倉街道を通って、峠を下って田楽ヶ窪で休息を取っていた 義元を襲ったことが考えられる。そして戦人塚の近くで激戦が戦われ、義元は桶狭間古戦場跡で討たれた ことが考えられる。 ただ、沓掛城から極めて近い。義元が沓掛城を出てすぐ近くで休息を取ったであろうか。 田楽ヶ窪は窪地であり、山でない。 信長が沓掛城近くまで攻め込めたであろうか。という疑問が残る。 3、桶狭間古戦場跡説 史跡があることと山澄本桶狭間合戦には、信長の馬丁を勤めた男が、「やたらと坂を乗り上げ、乗り下った」 といっていることから、信長の馬丁を勤めた男が覚えていないような迂回路を通って進んだことから この地が桶狭間と考えられる。 鎌倉街道から沓掛の峠を越えて、東海道に出た信長は、義元の本陣がある高徳院と東海道を挟んで 反対側にある会下山(大将ヶ根)に本陣を構え、真向かいの義元の本陣を攻めたと考えられる。 戦いに敗れた義元は、そこから桶狭間の山の裾野を大高道を目指して馬で落ち延びてゆく。しかし、 桶狭間古戦場公園のあるところで織田軍に追いつかれてそこで最後の戦いが行われ、義元は討ち死にした。 そこが現在桶狭間古戦場公園となっている田楽坪(でんがくつぼ)と考えられる。 両者の距離は徒歩で約15分である。 義元は本陣の北西に兵を備えていた。有松にもいたであろう。その今川軍に知られること 無くこの地に来るには迂回路を取るしかないであろう。迂回路説が前提となる説といえる。 4、桶狭間古戦場公園説 沓掛城から東裏街道を通って阿野村にでて、そこから大脇村を通って大高街道を進んでいた。そして途中に 大高街道から現在の桶狭間古戦場公園となっている田楽坪に入って休息を取っていて、 64.9mの桶狭間山からの急襲で、信長に討たれたという説である。史跡も多い。 しかし、休息を取るのにわざわざ田楽坪に行くはずがない。義元は桶狭間山に陣を置いていたという。 田楽坪は窪地である。田楽坪で襲われたら、大高街道に戻り落ち延びる時間的余裕は十分あると考えられる。 5、64.9mの山説 「今川義元の本陣は、64.9mの山にあった」といわれている。そして、 64.9mの山にある義元の本陣を、会下山(大将ヶ根)に本陣を置いた織田軍が攻めた。 義元は、大高城を目指して落ち延びたが、桶狭間古戦場公園のところで討たれたということに なろう。 しかし、64.9mの山は桶狭間山とはいわない。史跡伝説が無い。会下山(大将ヶ根) から遠いので、義元は大高街道に出て太高城に落ち延びる時間的余裕が十分ある。 おそらく、織田軍は義元を捉えることはできなかったのではないかと考えられる。 この説も迂回路説が前提となろう。 また、逆に信長軍が64.9mの山の下から、64.9mの山にある義元の本陣を攻め上ったとも 考えられる。この場合、義元は戦いに敗れ、沓掛城を目指し落ち延びていくが、 桶狭間古戦場跡のところで追いつかれて討ち死にすることにある。 しかし、攻め上がるには相当の時間が必要で、義元が掛川城に落ち延びる時間的余裕があり、 織田軍は義元を捉えることはできなかったのではないかと考えられる。 時間の面から見ると信長公記により、時間の面から見てみると次の通りである。正午:義元、北西に兵を備え、鷲頭、丸根の落城を祝い、謡を歌う。 信長が善照寺砦に来たのを知った佐々勝道、千秋四郎が今川勢に攻め込んだが 逆に討たれた。義元はこれを見た。 信長これを見て、反対を押し切って中島砦に移動。 信長、反対を押し切って中島からさらに先へ。 そこへ、前田又衛門らが敵の首を持ってくる。話しを聞いて、山際まで兵を寄せる。 激しい雨が降る。やがて雨がやみ、信長、敵に攻めかかる。 義元の旗本を見つける。 午後2時頃:東に向かって攻める。 つまり信長が、善照寺砦から中島砦に行き、中島砦を出て前田又左衛門などの話を聞き、 豪雨の中、桶狭間山まで行き、雨がやむのを待って攻め入り、戦いの中で、義元の旗本を見つけるまで、 2時間であったことになる。 2時間で可能な場所鳴海駅から中京競馬場前駅まで3.7キロ。普通に歩いて、1時間弱かかる。漆山以外の場所は、 移動に1時間は要するので、時間的に無理があるように思える。さらに、北西に兵を備えていた。いわれているように、有松に松井宗信が本陣を構えていたら、 それに見つからないように東海道を進むことは困難であろう。 まして、これと闘い撃破して、狭間古戦場跡、狭間古戦場公園、64.9mの山などに わずかの時間で進むことは考えられない。そこから狭間古戦場跡、狭間古戦場公園、64.9mの山など の場合、迂回説が出てくるが、迂回したらさらに多くの時間を要するであろう。 結論中島砦から漆山までは、600〜700メートルである。この距離なら、わずかの時間で 進むことは可能である。豪雨の中でも敵に見つからないで進むことは可能である。 迂回路も取る必要がない。このようなことを考えると、1の漆山説が有力ではないかと 考えられる。他の場所では、時間的も説明の面からも到底無理である。義元は、鳴海城への入城を目指していた東海道を進んできた義元は、漆山で休息を取り、午後には、信長の中島砦を落として鳴海城に入り、 善照寺砦、丹下砦を攻める手はずになっていたが、鳴海城の手前で討たれてしまったと 考えられる。 |