園城寺(三井寺)



園城寺(おんじょうじ)。三井寺ともいう。

大友皇子が建立

弘文天皇の皇子で、天武元年(672)6月の壬申の乱で討たれた大友与多王(大友皇子)が、 田園城邑を寄進して建立したのが、長等山園城寺(大津市)である。

閼伽井

この寺には、天智・天武・持統の3帝の御産水に用いられた閼伽井(あかい)と呼ばれる 霊泉があり、御井(みい)と呼ばれていた。後に三井寺と呼ばれるようになった。

新羅三郎義光

園城寺(おんじょうじ)は、源頼義が前九年役の際、三井寺の新羅神社に戦勝を祈願した。 また、頼義の3男で義家の弟義光は、境内にある新羅神社で元服したので新羅三郎義光と称している。園城寺は源氏の拠点であった。

以仁王の挙兵

以仁王の挙兵では、以仁王は御所を脱出、近江の園城寺(三井寺)に入った。 平氏が園城寺を焼打ちするというので、以仁王は味方した奈良の興福寺に逃げた。

平清盛は、福原から都を京に戻と、平知盛、忠度らに園城寺を焼き討ちを命じ、 12月28日には興福寺、東大寺も焼き討ちにした。 園城寺は、金堂、講堂など637棟が全焼、仏像2000余体、おびただしい経巻、800余人の死者を出した。 東大寺では、大仏が損傷した。

なお、平重盛は、一の谷の戦いで源氏方の梶原景季らに捕えられ、 平氏一門で最初の捕虜となり、鎌倉に送られ頼朝と対面した後、 元暦2年(1185)6月22日東大寺衆徒に渡され、23日泉木津で斬られた。

公暁

鎌倉時代、頼家の子公暁は、近江国園城寺(三井寺) に住持していたが、公暁が18歳の時の建保5年(1217)6月、 北条政子が鎌倉鶴岡八幡宮の第4代別当として招いた。 そして実朝暗殺事件を起こす。

延暦寺の山門と対立

また学問修行の場として寺門と呼ばれ、延暦寺の山門と対立した。 争いの動機は、天台座主をどちらから出すかという主導権争いであった。 争いは、600年間以上続いた。三井寺が源氏を支持すれば、 延暦寺は平氏を支持し、以仁王の挙兵の時は、平氏とともに三井寺を焼いている。 南北朝時代には、三井寺は北朝を支持し、延暦寺は南朝を指示した。 一時は、僧兵が、三井寺は1000人、延暦寺が3000人いたという。

延暦寺は後に、織田信長に焼討され、僧兵は全滅した。また三井寺は豊臣秀次に味方したとされ、 豊臣秀吉に破却されたが、徳川家康によって僧兵を置かないという条件で再建された。

スパイ

戦国時代、園城寺(三井寺)末聖護院を本拠とする天台系の本山派と、 醍醐寺三宝院を本拠とする真言系の当山派が山伏によるスパイの2代組織であった。

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