律令制度とは


律令制度とは

律とは刑法のこと。律とは、罪を犯したときの罰則のこと。

令とは、国家を運営する基本法のこと。令は、律令国家の目指した中央集権国家の国の統治組織、 太政官を最高機関として政治を行なう太政官制度で、宮司制(中央官僚制・太政大臣などの 太政官組織・2官8省100官)、官位、文書システム、 地方組織(国司郡司など)、 税制(班田収授と租庸調など)、 兵士制、中央と地方を結ぶ駅路などのあり方のことである。つまり国全体を統治する技術のことである。

それは、当時のヤマト王朝の氏族性的な国家運営から考えられないほど高度な国家統治技術で、 中国の長い歴史の中から生み出されたものを唐から輸入したもので、当時の日本の社会では到底作り出せないものであった。 日本は、中国が長年の経験を経て手に入れた律令を遣唐使が持ち帰り、律令法典を作り上げることができたのは幸運であった。 遣唐使は大変大きな役割を果たした。

天智朝に近江令ができ、天武朝から持統朝のはじめにかけて浄御原令が作られ、文武朝の大宝律令によって、 日本は、大宝律令により古代国家は律令制国家という形で完成した。 元正朝に養老律令が作られた。令については4回編纂があったが、律は2回といわれている。

近江令

645年6月の大化の改新で権力を握った中大兄皇子(後の天智天皇)は、百済救済のため、 朝鮮に軍隊を送る。しかし663年8月、唐と新羅6月の連合軍に白村江の戦い に敗れた。中大兄皇子は、大いに危機感を持ち、唐に対抗するため、唐にならって、唐の制度である律令制度を採り入れた。

大化元年(645)以来の司式である内臣と国博士を廃し、太政大臣−左・右大臣−大納言を置いた(太政官という)。 そして太政官−大弁官(実務を取り仕切る)−六官(法官・理官・大蔵・兵政官・刑官・民官。浄御原令で中官・宮内官が加わって八官になり、 大宝令で八省になった。)を作った。この制度は、後の飛鳥浄御原令や大宝律令へ影響を与えた。

近江令は、近江朝廷(中大兄皇子)が668年に制定した令22巻である。671年に施行され、689年まで続いた。 近江令は現存しない。律は、藤原鎌足を中心に進められたが、死んでとん挫し、できなかった。

また、中大兄皇子は、庚午年籍など律令制度の基礎となる施策を実行した。た。

飛鳥浄御原令

689年6月、天武天皇の后で後の持統天皇は、飛鳥浄御原令を施行した。この令に、倭国に代わって、 中国から見て「日出づる処」すなわち「日本」(日の本(はじめ)の意味)を国号としたらしい。 また、飛鳥浄御原宮とみられるところから「大津皇」と書かれた木簡にいることから、皇太子が制度としてあったとみられる。 しかし、浄御原令は現存しないので、詳しいことはわからない。日本書紀には、律が施工されたという記事は、出てこない。 律は編纂されなかった。律は次の大宝律令においてはじめて完成する。

大宝律令

701年3月、文武天皇は、元号を大宝とした。元号制度は、この大宝を始めとして、現在まで続く。
701年8月、大宝律令が完成した。律6巻、令11巻。見習ったのは唐の永徽律令であった。律が初めて完備した。 702年施行。このことは日本が中国から独立した国家であることを意味した。

大宝令が施行されると、宮司制、官職制、公文書制などが整備され、日本の律令制度は本格的に歩み始めた。すなわち、
・ 天皇が国家の頂点に立ち、太政官の下に8省が設置され、政務を担当する中央官制ができた。
・ 地方行政は、国・郡・里(後に郷)によって支配されていた。
・ 戸籍による人の把握、班田収授のための条里制と田帳・田図の整備、租庸調の税、身分制(良民と賤民に分け、 良民は皇族・貴族・公民・雑色に分けた)、兵士制などである。
・ 5畿7道制が導入された。5畿とは大和、摂津、河内、山城、和泉の国である。中央政府の官人は5畿内の出を原則とした。 畿外は外国であった。また5畿内の百姓は税が軽かったなど特別な地域だった。 畿外には、東海道、東山道、北陸道、山陰道、山陽道、南海道、西海道の7道が設けられ、各国を通過する駅路が設けられた。 駅家は30里(16キロ)ごとに置かれ、馬が配置され、公の命令、報告等はすべて文書によって処理された。

その他、譲位した太上天皇は天皇と同じ地位・権限を持っていた。また女帝についても書かれている。 これは持統天皇が譲位して文武天皇を補佐するためと言われている。

大宝律令は、756年まで施行された。現存しないが、注釈本があり、復元が可能である。

702年、粟田真人を首席とする遣唐使が派遣され、中国に対して、日本国を名乗ったとされる。 唐の皇帝則天武后は、倭国を改め日本とした。
708年1月、元明天皇、平城京への遷都の詔を出す。遷都は大宝律令に基づく都を作るためであった。

養老律令

718年1月、元正天皇の時、養老律令の編纂が藤原不比等を中心に体系的法典として完成した。 中国の律令法を手本としているが、大宝律令とほとんど同じ条文。律10巻、令10巻。養老律は、賊盗律、詐偽律など12の律があった。 養老令は官位令、職員令、戸令、田令、賦役令、公式令(公文書の書式)、選任令、考仕令など30の令があった。 約40年後の757年に施行された。全文を知ることができる。

格と式

律令は大枠しかただめておらず、実際はより細かな定めが必要だった。それが格と式であった。格とは追加法令のこと。 弘仁格、貞観格、延喜格などがある。式とは、施工細則のこと。延喜式が特に有名である。

律令制度のその後

律令制は、周辺地域にも及んだ。712年には、出羽国が新設された。西では薩摩国が新設され、隼人の乱がおこる。 713年には、大隅国が新設され、やはり隼人の乱がおこる。720年には大隅国司が殺される。朝廷は、大友旅人を大将軍に任命し、 激戦となった。同年、陸奥でも蝦夷の反乱がおきた。そして38年戦争へと発展するなどの混乱を招いた。 また、郡司制度は消滅させるなどしたが、日本の古代国家は、律令制国家という形で9世紀に完成した。

官位令(官僚制)などは明治維新まで続く。また、慶応4年(1868)3月、いわゆる「五箇条の御誓文」に示された明治政府の政治の方針を 実現するために再び太政官制度が採用されたが、明治18年(1885)12月、内閣制度に代わっている。

他方、令の中の身分制・兵士制などは8世紀末に消滅し、10世紀はじめには籍帳の作成・班田収授は行われなくなった。 唐でも、760年以降、籍帳制度、均田制、祖庸調制、府兵制は崩壊した。

律は、唐では必要であったが、日本ではそれほど必要とせず、ほとんど機能しなかった。

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