源実朝暗殺事件



建保7年(1219)1月27日、三代将軍源実朝が、二代将軍頼家の子の公暁に暗殺された事件のこと。 これによって、頼朝が治承4年(1180)に築いた源氏の時代は約40年で終わり、 鎌倉時代は、以降北条氏の時代に移る。そういう意味で大きな事件であった。

背景

公暁は、二代将軍で、源頼朝と北条政子の嫡男頼家の子。実朝の甥にあたる。

公暁の父頼家は、建仁3年(1203)8月の比企能員の変後、 元久元年(1204)7月、公暁が5歳の時、修善寺で北条時政の手で暗殺されている。そして実朝が将軍になった。 本来なら公暁が将軍になるはずであった。

公暁は、近江国園城寺(三井寺)(以仁王が挙兵した時、一時逃げた寺) に住持していたが、公暁が18歳の時の建保5年(1217)6月、北条政子が鎌倉鶴岡八幡宮 の第4代別当として招いた。

事件の発生

建保6年(1218)正月には権大納言、同年3月には左大臣兼任、10月には内大臣、12月2日実朝は右大臣に任ぜられた。 京では「官打」という噂がたった。官打とは、分不相応な官位に昇進させ、本人に不運な目に合わせる一種の呪詛のようなものである。

実朝28歳、公暁が20歳の時の翌建保7年(1219)1月27日、右大臣拝賀のため鶴岡八幡宮に参詣することになった。

午後6時、2尺(60センチメートル)余の雪が降っている中、行列は出発。

吾妻鏡によれば、「北条義時は、八幡宮寺の楼門で急に気分が悪くなり、先導役を源仲章と交代して、 小町の屋敷に帰った。夜に及び神事が終わった。実朝がようやく退出したところ、 鎌倉鶴岡八幡宮の別当阿闍梨公暁が石の階段の脇で襲う気を伺い、剣をとって実朝を襲った。 公暁は「別当公暁が父の仇を討った」と叫んだ。」という。

また、すっかり暗くなって参拝が終了、退出してきた実朝が、石段の上にさしかかったとき、突然公暁が切りつけ、首を討ち取った ともいわれている。

愚管抄には、「参拝を終えた実朝が宝前の苗の階段を下り、公卿たちの前を通りすぎようとした時、兜巾をかぶった 法師がおそいかかり、下かさねの衣装のすそを踏みつけ、斬りつけて討ち取った。 これを追うように同じような姿をしたものが、3,4人太刀を振るい、源仲章を北条義時と思い込み討り取った。 この時、義時は太刀を持ち片腹にいたが、実朝に、中門に止まれと言われ止まっていた。」という。

歴代鶴岡八幡宮の社人を勤めた石井氏に伝わる話では、「実朝が夜10時すぎ、上宮の内陣に入り、 神前でぬかづいて礼拝していたところ、内陣の御簾の陰に潜んでいた公暁が躍り出て、大声でわめきながら斬ってかかり、 あっという間に実朝を討ち取った」とのことである。

事件の後

石段の下にいた御家人は、石段を駈け上がって公暁を探したが見つからず、公暁が別当だったので、その住まいである雪ノ下東谷の 別当坊を襲撃して、公暁の門弟たちと戦って、これを打ち負かしたが、公暁はいなかった。

公暁は、雪ノ下北谷にある後見人の備中阿闍梨の家に食事のため立ち寄っていた。手には実朝の首を持っていた。 食事をし、そこから乳母夫の三浦義村に「将軍にしてくれ」と使いを出した。義村の子の駒若丸は公暁の門弟だった。

義村は、小町亭の義時に連絡を取り、討てと命令され、公暁を討つため長尾定景を遣わした。 公暁は、鶴岡八幡宮の東にある三浦氏の屋敷を目指して、大臣山を超え、途中で追手に会いながら、 切り開いて義村の屋敷(鶴岡八幡宮の東、筋替橋の辺にあった)にたどり着き、羽目板を張った塀を乗り越えて、 中に入ろうとしたところで討ち取られた。

実朝の首のない遺体は、翌日、勝長寿院に葬られた。

愚管抄によれば、首は岡山の雪の中から見つかったという。

首は義時に届けられた。それを見た義時は公暁であると確信できなかったという。 そのため、公暁は生きているという噂が流れた。(金洗沢参照)

一説では、首は、三浦義村の家臣武常晴が義村の命により、三浦氏と仲のよかった波多野氏の館の近くの秦野の田原の里に葬った。それで秦野に 「源実朝公御首塚」があるとのことである。

30日阿闍梨の雪ノ下の屋敷と領地が没収された。

2月4日没収された備中阿闍梨の雪ノ下の屋敷は、三条局(源頼朝の従妹)に与えられた。

共犯者

源実朝を暗殺したのは、公暁のほか3,4人いたという。そこで早速鶴岡八幡宮の供僧が調べられた。

鶴岡八幡宮諸職次第に、「(号悪別当)公暁別当興力供僧3人(建保7年巳卯正月27日、依実朝大臣殿之事)  良祐(静慮坊) 顕信(2位律師) 良弁(中納言阿) 以上3人被改易之者也、猷弁 但依申遁子細補、」とある。

良祐については、吾妻鏡 「建保七年(1219)二月小一日戊戌。鶴岡供僧淨意坊豎者良祐有其誤之由。依讒訴輩之説。 被經御沙汰之處。不相交謀反事之間。又可安堵之旨。京兆下知給云々。」とある。 取り調べを受けたら、謀反には加担していないと分かったとあるが、これは誤りである。

二十五坊の供僧8人の供僧が取り調べられ、 静慮坊賢者良祐(北条時政推挙)、浄蓮坊阿闍梨良弁(佐々木高綱推挙)、円乗坊律師顕信(平教盛の孫)が共犯とされ、 所職を改替(改易)された。また、3人に実円坊律師猷弁(ゆうべん)(北条義時推挙)を加えた4人が与力の咎で所職を改替された。 その4人はすべて平氏一門だった。後に、実円坊律師猷弁は訴訟によって復活した。

黒幕

この事件には、黒幕がいたのだ。

悪禅師

「清和源氏系図」では、将軍実朝を誅した公暁を世の人が、悪禅師と呼んだ、という。

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