福島・篠川城跡(篠川御所跡)

拡大 篠川(ささがわ)城。

築城者、築城年代ははっきりしていない。

明徳元年(1390年)関東管領足利氏満の弟満秀が下向駐在、応永初年には、氏満の第3子満隆が入った。

明徳3年(1392年)二代足利公方足利氏満のとき、 相模、武蔵、安房、上総、下総、上野、下野、常陸、甲斐、伊豆に加えて陸奥、出羽の二カ国が 将軍義満から与えられた。

そこで、応永6年(1399年)三代足利公方足利満兼は、弟の満直を篠川城に入れて、篠川公方・篠川御所と呼んだ。 (また、満兼は満貞を稲村城に入れ稲村公方・稲村御所と呼んで、 奥州統治の拠点とした。)

しかしこのとき、足利公方と対立してた室町幕府は、大崎氏を奥州探題に任命して、伊達氏などに 奥州探題の命に従うよう命じている。そのため、篠川公方、稲村公方の勢力は、限られていた。

さらに、足利公方から派遣された満直であるが、足利公方でなく、足利公方と対立する幕府方についていた。

応永23年(1416年)足利公方と関東管領上杉禅秀が戦った上杉禅秀の乱では、 満直は、足利公方でなく、禅秀に味方した。

応永30年(1423年)足利公方足利持氏と室町幕府が対立した時、幕府から満直に持氏討伐の内命が下り、 満直は足利公方になる画策をしたことがある。

正長元年(1428年)には、領地をめぐって、反足利公方(篠川公方)・白川氏らと反篠川公方(足利公方)・石川氏らが争い、白川氏が勝つ。 宇多荘の戦いである。これをこころよく思わない足利公方持氏は、永享元年(1429年)白川氏を攻める。

永享7年(1435年)には、持氏が石川氏らに篠川公方・満直の討伐を命じている。しかし幕府が乗り出し事なきを得ている。

永享11年(1439年)の永享の乱では、満直は京の幕府側についた。 この戦いで、足利公方持氏は、自刃した。

そして翌永享12年(1440年)、持氏の遺児、春王丸と安王丸を擁した持氏方の残党が結城合戦を起こした。 この戦いの中、満直と対立していた石川荘の石川持光は、満直を攻め、満直は自刃して、篠川公方・篠川御所は滅んだ。

天文20年(1551年)〜天正18年(1590年)まで二階堂氏の臣須田佐渡守頼隆が城郭の一部に居城した。

篠川城は、当時南北2キロ、東西300メートルあった。今は城跡に稲荷と石碑が建ち、民家と畑となっている。

電車では、JR「あさかながもり」駅下車。徒歩約10分。
車では白河から郡山に向かって、4号線が旧道とバイパスに分かれて一つ目の信号(左手に 「スプリングガーデン」がある信号)を右折。少しいくと右手に天性寺がある。

そこに車を止めさせていただいて。徒歩でさらにいくと「寺踏み切り」がある。 直進するとTの字の交差点があり、左折するとすぐ右側に商店がある。 (自販機あり)その1軒先に「東館稲荷神社」の石碑がある。その手前のとても狭い道(車は無理) を右折。少しいくと左手に稲荷と城の石碑(写真)がある。

駐車場なし、電話、トイレなし。

INDEXへ