佐竹城(舞鶴城・太田城)跡

拡大 常陸・舞鶴城(まいづる)城跡。太田城とも呼ばれた。

築城

天仁年間(1110年頃)藤原秀郷の子孫太田太夫道延が太田に定住し、城郭を築いたことに始まる。

この地は天喜5年(1057)八幡太郎義家が前九年の役の時、陸奥の国へ向かう連絡路として 使われたという交通の要所にある。

初代佐竹昌義

曽孫道長に至るまで居住したが、馬坂城に土着した佐竹冠者昌義(佐竹氏初代)と主従関係を結び、 道長は小野崎(瑞竜町)に移ってしまう。

変わりに入ってきたのが佐竹昌義である。昌義は馬坂城に城代をおいて佐竹城(太田城)に移った。城の竣工の日に鶴が城の上を舞まわり、 吉兆として舞鶴城の名がつけられた。

佐竹氏の祖先は、八幡太郎義家の弟、新羅三郎義光である。義光は後三年の役で功績をあげ、常陸介に任ぜられて、 常陸国に赴任した。そして長男義業を久慈郡佐竹郷へ、三男の義清を常陸国吉田郡武田郷に配した。 前者が佐竹氏となり、義清は武田郷の地名をとって、武田氏を名乗った。(武田氏館参照)

第3代当主・佐竹秀義

佐竹氏はその後、勢力をつけた。しかし、佐竹氏は、総領の佐竹隆義が上洛中であったこともあって源頼朝の挙兵に際し、参陣しなかった。 そのため治承4年(1180年)11月頼朝の攻撃を受け、佐竹秀義は、治承4年(1180)に秀義自らが合戦のために築いた金砂山城 (かなさざんじょう・久慈郡金砂郷村上宮河内)に籠った。

頼朝軍が攻めてもどうしても落とせなかった。そこで叔父の義季を調略し、搦め手から攻め、落とした。佐竹秀義は花園城(北茨木市)へ逃れた。 領地は没収され、御家人に分けた与えられた。(佐竹征伐参照。)

その後、文治5年(1189)になって秀義は礼を尽くし、常陸の北部の領有を認められた。また、 頼朝に従い奥州征伐に参戦。戦功をあげ、常陸の介に任ぜられた。

第9代当主・佐竹貞義

9代佐竹貞義の時は、足利尊氏(北朝)と後醍醐天皇(南朝)が不仲となり、舞鶴城(太田城)の佐竹貞義は北朝方に味方した。 当時、陸奥国府には南朝方の北畠顕家がいた。舞鶴城は、その陸奥と関東を結ぶ重要な街道沿いにあった。

そのため南朝方は北畠顕家のいる陸奥国への連絡通路を妨害している佐竹貞義を討伐しようと、 建武3年(1336)1月、 南朝方の主将楠木正成の代官楠木正家は、瓜連城を築いた。

建武3年(1336)2月、瓜連城に南朝に味方する小田城主小田治久、 府中城主大掾高幹らや北畠顕家の代官広橋経泰らが集まり、 佐竹氏と合戦となった。 2月、佐竹貞義は、戦いに破れて金砂山城に籠って、勢力の回復を待った。12月、瓜連城を攻め落城させた。楠木正家、広橋経泰は陸奥国府へ、 小田治久は小田城へ帰った。瓜連合戦である。

第12代当主・佐竹義盛

応永14年(1407)12代佐竹義盛は子がないまま死去した。宿老小野崎通綱は、佐竹庶家の横暴を防ぐため、 応永15年(1408)山内上杉家6代当主・関東管領 上杉憲定の次男龍保丸を佐竹氏の養子とした。当時龍保丸は8歳であったので、 その後見として上杉一族で美濃山方出身の山方能登守盛利が常陸に下向し、居城としたのが御城である。

第16代当主・佐竹義舜

この養子縁組に佐竹一族の佐竹(山入)与義ら佐竹庶子家が反対し、以降、佐竹総家と佐竹庶子家の対立した。 これを知った会津の芦名盛高、伊達尚宗(伊達氏の第13代当主)、 白河の結城政朝らが延徳元年(1489)明神峠(久慈郡里見村)を越えて佐竹領に侵入したが、 14代佐竹義治は、深来(里見村村上深荻)でこれを撃退している。対立する山入氏が招き入れたともいわれている。

対立の途中、16代義舜、金砂山城に陣屋を移した。そこで山入氏義は金砂山城を攻めたが、大雷雨に合って敗退した。 そして義舜は明応9年(1500)から3年間佐竹氏は金砂山城に籠城していた。 永正元年(1504)義舜は岩城氏の支援をうけて舞鶴城を攻めて奪還し、闘争した山入氏義を高部(久慈市美和村)で捉えて処刑した。 約100年続いた佐竹の乱・山入一揆に16代義舜は勝利し、佐竹氏中興の祖となる。

第19代当主・佐竹義重

19代佐竹義重の時、永禄7年(1564年)岩槻城主太田資正(三楽斎)は、北条氏に内通していた 嫡子太田氏資に城を乗っ取られ、佐竹義重を頼って落ち延びた。義重は、資正を片野城、 梶原政景を柿岡城に入れ、客将とした。

義重は、関東では、春日山城の関東管領上杉謙信と手を組み北条氏と戦い、 天正6年(1567)に謙信が死ぬと、6月、結城城の結城晴朝、烏山城の那須資胤、 宇都宮城の宇都宮広綱などと起請文をかわし、小田原城の北条氏と対抗する。 (一例として沼尻合戦があげられる。)

他方、東北地方では、伊達政宗と勢力争いを繰り返す。(一例として 人取橋の戦いがあげられる。)など合戦に明け暮れた。

豊臣秀吉と親しかった義重は、豊臣秀吉の小田原征伐の後の、天正18年(1950年)12月、 水戸城の江戸氏、府中城の大掾氏を攻め滅ぼした。 江戸氏は結城晴朝を頼って結城城に落ち延びた。

水戸城の江戸重通は、佐竹家臣であったが戦国大名化していた。しかし豊臣政権下では小田原征伐の際、 直接参陣しなかったため、大名として認められず、佐竹氏は自国内の問題として処理できたのである。 そして南方三十三館の領主を佐竹城に呼び寄せ、誅殺し、それらの館を攻め滅ぼして、 常陸の国の支配権を確立した。

第20代当主・佐竹義宣

天正19年(1951年)20代義宣が水戸城に移って54万石となり、佐竹城は義重の隠居の城となった。

義宣は、慶長5年(1600)9月15日に起きた関ヶ原の戦いの際、 徳川家康の命に従い赤館城に出陣したが、裏で会津の上杉景勝と密約を結び、景勝とともに家康を背後から付くことになっていた。 しかし、景勝は徳川家康を背後から付くことはなかった。

廃城

義宣も動かずどちら付かずの態度を取ったため、慶長7年(1602年)徳川家康の命により、 常陸54万石から出羽(秋田)20万石に国替えさせられ、佐竹城は廃城となった。

この時、家康の再三の誘いにも出陣しなかったばかりか、小山にいた徳川家康を夜討ちする計画を立てた配下の 多賀谷氏は追放され、城は破却されている。

当時

当時は、太田小学校を含む台地一帯が城であった。本丸、二の丸、三の丸、北郭、土塁、堀などがあった。

現在

現在は何もない。太田小学校正門入口を入った右手に写真の石碑があるのみ。この石碑は昭和54年度卒業生が建てたものである。

行き方など

JR水郡線「ひたちおおた」駅あるいは日立電鉄「じょうほくおおた」駅から約2キロ。

車では、国道349号線で矢祭に向かって、市内中城町方面に行く交差点を左折。 「中城町」交差点を越えてすぐ次の信号を右折して少しいった左側が太田小学校。

街中は、まるで迷路。道は狭く、くねくねしていてT字路が多く。道順を聞いても わからない。全く整備されていない。したがって街の東側から入るのがよい。

駐車場あり。トイレなし。その他街中なので何でもある。

INDEXへ