佐竹城

拡大 佐竹(さたけ)城は、舞鶴城、太田城とも呼ばれ、天仁年間(1110年頃)藤原秀郷の子孫 太田太夫道延が太田に定住し、城郭を築いたことに始まる。

曽孫道長に至るまで居住したが、馬坂城に土着した佐竹冠者昌義 (佐竹氏初代)と主従関係を結び、道長は小野崎(瑞竜町)に移ってしまう。

変わりに入ってきたのが佐竹昌義である。昌義は馬坂城に城代をおいて太田城に移った。城の 竣工の日に鶴が城の上を舞まわり、吉兆として舞鶴城の名がつけられた。

佐竹氏の祖先は、八幡太郎義家の弟、新羅三郎義光である。義光は後三年の役で功績をあげ、 常陸介に任ぜられて、常陸国に赴任した。そして長男義業を久慈郡佐竹郷へ、 三男の義清を常陸国吉田郡武田郷に配した。 前者が佐竹氏となり、義清は武田郷の地名をとって、武田氏を名乗った。

佐竹氏はその後、勢力をつけた。しかし、源頼朝が旗揚げしたとき、同じ源氏でありながら、見方せず 平氏についた。そのため治承4年(1180年)11月頼朝の攻撃を受け、佐竹秀義は奥州へ逃げ、 領地は没収され、御家人に分けた与えられた。

その後、頼朝に従い奥州征伐に参戦。戦功をあげ、常陸の介に任ぜられた。

十九代義重は、手段を選ばす権謀術策の限りを尽くし、水戸城 の江戸氏、府中城の大掾氏を攻め滅ぼした。そして、 南方三十三館の領主を佐竹城に呼び寄せ、誅殺し、それらの館を 攻め滅ぼして、常陸の国の支配権を確立した。 天正19年(1951年)20代義宣が水戸城に移った後も義重が太田城にあって後見した。

しかし、20代義宣は、関が原の合戦の際、徳川家康の命に従い赤館城に出陣したが、 裏で会津の上杉景勝と密約を結び、徳川家康を背後から付き、 関東地方に攻め入る手はずを整えていた。しかし高みの見物を決め込んだ義宣は動かず どちら付かずの態度を取ったため、慶長7年(1602年)徳川家康の命により、 常陸54万石から出羽(秋田)20万石に国替えさせられ、佐竹城は廃城となった。

当時は、太田小学校を含む台地一帯が城であったが、現在は何もない。太田小学校正門入口を 入った右手に写真の石碑があるのみ。この石碑は昭和54年度卒業生が建てたものである。

JR水郡線「ひたちおおた」駅あるいは日立電鉄「じょうほくおおた」駅から約2キロ。 車では、国道349号線で矢祭に向かって、市内中城町方面に行く交差点を左折。 「中城町」交差点を越えてすぐ次の信号を右折して少しいった左側が太田小学校。 街中は、まるで迷路。道は狭く、くねくねしていてT字路が多く。道順を聞いても わからない。全く整備されていない。したがって街の東側から入るのがよい。

駐車場あり。トイレなし。その他街中なので何でもある。

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