摂津源氏



摂津源氏(せっつげんじ)。

摂津源氏は、多田源氏の一流。多田源氏が本流。

清和天皇−貞純親王−源経基−源満仲−源頼光−源頼綱−源仲政− 源頼政−源仲綱−宗綱−頼兼(仲綱の弟)−源頼茂と続く。

頼政は御所の内庭を警護する大内守護として八条院に仕えていた。 以仁王は八条院の三位局(高階盛章の娘)の夫であった。 以仁王の挙兵に味方し、橋合戦で討死した。

承久元年(1219)正月、源実朝が公暁に討たれた。 後鳥羽上皇は、弔問使として藤原忠綱を下向させたが、あわせて、摂津国倉橋・長江庄の 地頭職を変えるよう申し入れをした。執権北条義時はこれを拒否し、北条時房に1,000の兵をつけて京に差し向けた。

2か月のわたる交渉の結果、九条道家の3男、三寅を下向させることになった。2歳だった。 三寅が鎌倉につく前に、大内守護右馬権頭源頼茂は、「藤原氏でなく源氏の血筋を引く自分こそ将軍になるべきだ」といって後鳥羽上皇に直訴した。

内裏の昭陽舎に立てこもる頼茂に対し、承久元年(1219)7月25日、後鳥羽上皇は軍を差し向けた。頼茂は仁寿殿に入って火を放って自殺した。 仁寿殿など内裏の中心部が焼けた。内裏が焼けることは前代未聞だった。

この時焼けた内裏の再建のために、後鳥羽上皇は全国の荘園・公領に税をかけた。しかし税は思うように集まらなかった。 このことが承久の乱にも関係しているという。

鎌倉幕府は「内裏守護に関することなので、介入することではない」として沈黙を守った。これにより、摂津源氏は滅亡する。

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