平清盛


平清盛(たいらのきよもり)。

平治の乱で藤原信頼と信西を同時に失った後白河院は政治的に無力化した。 そこで目を付けたのが伊勢平氏の平清盛である。公家でなく武家 の起用である。建春門院滋子は、平清盛の妻時子の妹。平治の乱後、後白河院の妾となり、高倉天皇の母となった。 ここに武家平清盛の全盛期がはじまる。

平氏は、貴族な作法や教養を身に着け、皇室や貴族と結婚を繰り返した。しかし出は武士であり、 清盛は全国の武士の統括者になろうとしていた。つまり貴族の顔をした武士であった。 平清盛を中心とした武家政権である。公家に仕える武家でなく、武家が直接国を治める社会の始まりである。 清盛は、旧来の制度をそのままに、清盛に続く弟教盛、経盛、頼盛そして子の重盛、宗盛、知盛を 公家社会の慣例に従って昇進させた。

日宋貿易

清盛は、1169年1月、政治は平重盛にまかせた。そして本拠地を京都から摂津国福原(神戸市)へ移した。 宋(中国)との貿易を進めるためである。大輪田泊(神戸港)を貿易港として日宋貿易を目指した。
安元元年(1171)南宋の明州の長官から後白河法皇と清盛に贈り物と書状が届く。 これに対し清盛が返事する。このことがきっかけで宋船が訪れる。 中国からは大量の銅銭が輸入された。その結果清盛以前は銅銭を用いた商取引はなかったが 銅銭による商取引が日常的に行われるようになった。その他、陶磁器、香料、薬種などが輸入された。 日本からは、木材、砂金、銀、真珠等が輸出された。日宋貿易は平氏に大きな利益をもたらした。

地頭の配置

日本は、平清盛(1118〜1181)の時代の1100〜1150年の50年間に広大な農地が開拓された。 後白河院政の末には日本の農地の大半が荘園になってしまった。平氏は500余の荘園を持っていた。 清盛の弟頼盛は、33か所持っていた。 そして全国の荘園に地頭を置いた。平氏と主従関係を結んだ荘官(実質的な荘園の支配者)を地頭(地方の武士)にした。 その結果、平氏は地頭に皇室に従うよう指導する一方、荘園領主には地頭に平氏がいるので無理な要求を出しにくくなり、 荘園領主と地頭の関係がよくなるのをねらった。

大番

御所を警備する武士を大番という。はじめは平氏の直属の家人であったが、しだいに荘官が任じられるようになった。 大番になるということは、平氏に武士として認められたことで、名誉なことであった。畠山氏、小山氏大庭氏など大番として京に詰めた。

知行国

清盛は、国府を利用して全国の武士を組織しようとした。平氏は、全国の約半分の30余か国を知行国とした。
常陸、武蔵、上総、駿河、三河、尾張、伊勢、紀伊、美濃、飛騨、越中、佐渡、能登、加賀、越前、若狭、若狭、 丹波、丹後、田島、播磨、備前、備中、周防、長門、淡路、讃岐、阿波、伊予、筑前、薩摩である。

福原遷都

治承4年(1180)福原へ遷都。しかし高倉上皇が病気になり同年暮れ京都へ再遷都。

翌年1月、高倉上皇死去。2月清盛死す。良い後継者に恵まれない平氏は4年後に滅亡した。

福原政権

厳密な意味での平氏政権は、治承3年(1179)11月平清盛が、後白河院を鳥羽殿に幽閉し武力で政権を握った。 14日平清盛は福原から出陣した。そして20日福原に帰っている。このときから、 後白河法皇の院政が再開(1181年1月)されるまでの1年2ヵ月である。実に短い期間だったが、 たとえりわずかの間とはいえ、武士が政権を握ったことに意義がある。

平清盛は武士としてはじめて政権を打ち立てた。平清盛の本拠地は福原にあったので、清盛の政権を福原幕府という。 なぜ福原かというと、京では古い国家体制(天皇、貴族、寺社などを中心とした)が現存し、平家を中心とした新しい体制 をつくるには、これを壊してからでないと作れないからである。福原なら作るだけでよい。この考えは 源頼朝が鎌倉で武家の新しい社会をつくったのに引き継がれる。

平氏の政権を最後の貴族政権という人がいる。そうだろうか。平清盛は伊勢平氏で桓武平氏である。 平清盛の先祖は平貞盛で、平将門を討った武士である。貴族は武力を用いない。貴族が 鎧兜を身に纏い弓矢で源氏と戦うであろうか。それはもはや貴族とは言わない、武士である。 平清盛は貴族の振舞をしたとしても武士である。その政権は武家政権である。

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