千葉城

拡大 千葉(ちば)城。

千葉氏

大治元年(1126年)平常重が士気(とけ)の大椎城から千葉に移り住んだときに築城された。 そして千葉氏を名乗った。

千葉氏の先祖は、平良文で、平忠常の乱の忠経(忠常) −経政(常将)−経長(常長)−経兼(常兼)−経繁(常重)−常胤と続く。 経兼(常兼)のとき、城を築いて千葉氏を名乗ったとの説もある。

千葉荘の荘官

元永年間に、平常重が開発領主となって開いた荘園・千葉荘を鳥羽院に献上して常重は同荘の荘官になった。 同荘は、下河辺荘、足利荘などとともに、鳥羽院から娘八条院に継承された。

また相馬御厨が国司藤原親通に収公される事件があった。その時源義朝が介入して常胤は相馬郡の郡司職・相馬御厨の下司職 を回復した。それで保元の乱で常胤は義朝に従った。義朝が敗死。平氏の時代になると相馬御厨は佐竹氏に 奪われてしまう。

頼朝に味方

その後、源頼朝は平家打倒の兵をあげたが、石橋山の合戦 で平家の大庭景親を総大将とする鎌倉党に敗れ、舟で真鶴半島から安房に逃れた。 そこで、再起をはかった時、千葉常胤は頼朝に味方し、頼朝に鎌倉入ることを勧めた。(静粛橋参照。) 千葉常胤は頼朝に味方したのは、頼朝を使って佐竹氏に乗っ取られた相馬御厨を取り戻すためであったとの説がある。

相馬御厨を佐竹氏から取り返す

頼朝が平氏との富士川の戦いで勝利し、京へ攻め上ろうとしたのを、 広常、千葉常胤、三浦義澄らは、「まだ関東に敵がいる」といって止めた。 そして頼朝に佐竹征伐をして、相馬御厨を佐竹氏から取り返した。 千葉氏は頼朝をうまく利用し相馬御厨を佐竹氏から取り返したのである。

泉親平の乱

文治5年(1189)7月の奥州征伐では、東海道の大将軍として参戦した。

建暦3年(1213)2月15日、阿静坊安念という僧が千葉常胤の孫の成胤の館を訪ね、源頼家の遺児千寿丸を将軍し、執権北条義時を打倒しようする計画 (泉親平の乱)に加担することを勧めたが、成胤はこれを捉え、義時に差し出した。このころ千葉氏は衰退していた。

宝治合戦

宝治元年(1247)6月の宝治合戦では、千葉氏は三浦氏に味方した。 しかし三浦氏が敗れたため千葉秀胤(泰村の妹婿)、常陸国の関政泰(妹が泰村妻)らが追討された。

秀胤は、上総介広常の遺領を引き継ぎ、泰村の妹を娶っていた。宮騒動の時から反北条で、評定衆を罷免され、上総に蟄居させられていた。 合戦の話を聞き、300騎を率いて鎌倉に駆け付けたが、法華堂の出来事を聞き、 引き返して大柳の館に引きこもり、北条勢に攻められ、館に火をかけ自害した。

千葉氏はその後約300年間、この地を拠点に勢力を振った。

関東八家

室町時代には関東八家となった。

千葉本家は滅亡

古河公方につくか上杉氏につくかで千葉家は二分され、 康正元年(1455年)時の城主17代千葉胤直は、古河公方に味方する重臣原胤房と叔父馬加康胤によって襲われ、 多古城志摩城に落ち延びた。 その多古城は馬加康胤、志摩城は原胤房に襲われ落城、千葉本家は滅亡する。

分家の千葉氏滅亡

千葉城は馬加氏が18代千葉氏を名乗り、城主となっていたが、里見氏の勢力に耐え切れず、長録元年(1457年) 本佐倉城へ移った。千葉城はその後北条氏のものとなり、江戸時代に廃城となった。

分家の千葉氏はその後北条氏に使えていたが、天正18年(1590年)豊臣秀吉小田原征伐の際 小田原城に籠城していた28代千葉介重胤は小田原城落城後領地を没収され、千葉氏は途絶えた。

行き方など

新装なった千葉城を訪れたが、当時の千葉城の絵図や模型はなく、当時の千葉城の詳細を知ることは 出来なかった。現在は公園の隅に猪鼻城址の石碑が立っているだけ。

現在の千葉城は猪鼻城本丸跡に建つ「千葉市郷土博物館」。鉄筋コンクリート造。5階建。 1階は受け付け、展示場、トイレ。2階は展示場、休憩所(飲み物の自販機あり)。3階展示場。 4階プラネタリウム。5階展望室となっている。5階までエレベータあり。

1階に暖房機が二つあるものの十分でなく寒い。2階3階5階は暖房がなく(?)とても冷えるので、 冬に訪れる時は充分厚着をして。

城の左側におやすみ処「いのはな亭」、トイレあり。すぐとなりの文化会館に軽食レストランがある。

千葉大医学部の前の道には面していないので注意。その道から信号を曲がってすぐ右側にある。 無料駐車場あり。駐車台数は決して多くはないが駐車場の管理人はどこよりもとても親切で便宜を はかってくれるので心配ない。

電車の場合、JR千葉駅から京成バス「大学病院行」約10〜15分「郷土館前」下車徒歩3分。

千葉都市モノレール「県庁前駅」から徒歩約10分。JR本千葉駅から徒歩約15分。

多古城跡

多古城跡は、多古町城山にある。町の年寄り三人に聞いた話では、城跡は、「町立中央保育園」 (写真)が建っているところがそうだという。かつては城跡があったが、今は何もない。

志摩城跡

志摩城跡はその道を国道を越えて直進、突き当たりの交差点を左折。少しいくと左手にJAの大きな 建物がある。その右手の丘が城跡。石の階段を登ると社(写真)がある。多古城と志摩城はごく近い。

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