津久井城

拡大 津久井(つくい)城は、三浦氏の一族筑井義胤が築城したことに始まる。応永年間は長山忠好、 文明年間は本間近江等が城主となっている。戦国時代には、北条氏に属し、内藤景定が派遣され 城主となった。

甲斐の武田信玄と北条氏康は、一時上杉謙信に対抗するため 同盟を結んでいた。ところが、第4回川中島合戦で信濃を完全に掌握し、 北西関東の上杉氏の城を落とした信玄の次の目標は、今川氏の駿河に侵攻することであった。

今川義元の後をとった今川氏真は力がなく、徳川家康がその領地をねらっていた。 駿府の国が家康のものになることを恐れた武田信玄は、甲相駿三国同盟を破棄し、徳川家康と密約し、 駿河に攻め込む。 掛川城に逃れた今川氏真は、徳川家康によって滅ぼされる。

もともと今川氏と関係の深い北条氏は、信玄との同盟を破棄して、上杉謙信と同盟を結んで信玄と 対抗する。

永禄12年(1569年)10月1日武田信玄は、小田原の北条氏康を攻める。 北条氏は小田原城に篭る。信玄は攻めをあきらめ10月4日、 三増峠を越えて撤退することとした。 それを察した北条氏康は、氏照、氏邦ら2万の軍勢で三増峠で襲った。

事前に察知していた信玄は、津久井城の押さえに家臣の小幡定信を派遣した。そのために津久井城兵 は城から出ることができなかった。信玄はまた、山県昌景を韮尾根に置いた。その一隊が志田峠を 越えて北条軍を後ろから攻めたので、挟み撃ちにあった北条軍は敗退した。いわゆる三増合戦である。

この戦いで北条軍は3千以上、武田軍は大将浅利信種が北条軍の鉄砲に撃たれ戦死するなど約9百 の犠牲者がでるほどの激戦であった。 その戦場跡に今は、三増合戦場の碑が建っている。

その後、豊臣秀吉の小田原攻めで本多忠勝、平岩親吉ら1万2千の軍勢に攻められ6月25日開城。 廃城となった。

山麓に館や屋敷を置き通常はそこに住んでいるが、戦になると山城に立て篭もる根小屋式山城。 当時は、本丸曲輪、太鼓曲輪、飯縄曲輪、米曲輪等があったが、現在は、建物、石垣等何もない。

JR橋本駅からバスがあるが未調査。車では、国道413号線で相模湖に向かう。城山ダムの堰堤 を越えてすぐ右側に花の苑地駐車場がある。そこに駐車。そこから徒歩で約50分。とう火台跡 と鐘衝堂跡、飯綱曲輪、太鼓曲輪、空掘、土蔵を経て本丸跡(写真)につく。この間いくつかの 堀切がある。

途中案内板あり。「山城山頂」という方にいく。本丸跡の土塁上に「築井古城記」の 石碑がある。道は整備されてる。各所にベンチあり。本丸広場にベンチあり。その先を少し下ると 右手に小さなトイレあり。

下りは約25分。駐車場にトイレ、公衆電話、自販機、農産物直売所あり。直売所で山菜ごはんが ある。隣にソバ等の軽食屋あり。

登りはじめのレンガ敷きの道は、つるつるして滑りやすい。レンガ敷きの道の途中から右に 入る狭い登り口を見落としがち。「山城山頂」という小さな案内板がある。本丸跡は飯綱神社の 約2百メートル先にあるので注意。

三増合戦場の碑は54号線沿いにあるのでなく、54号が中津川を渡る手前を右に曲がり、 ハイテク研究所団地に行く道沿いにあるので注意。65号線で行く場合、ハイテク研究所団地の 信号を曲がる。駐車場はないが、碑の右隣の広場に駐車できる。

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