宇都宮城跡

拡大 宇都宮(うつのみや)城。

関東七名城のひとつ。

宇都宮氏の先祖

宇都宮氏は、関白藤原道兼の曾孫藤原宗円といわれる。天喜2年(1054)氏家郷の原の宿にとどまり、勝山の釜ヶ淵で(鬼門・東北隅)戦勝祈願の護摩を焚いた。 そして、源頼義は前九年の役を平定する。

康平6年(1063)宗円は、この功績で宇都宮明神の社務検校職兼座主に任ぜられ、高田邑に館(宇都宮城の前身)を建てたという。 また、藤原道兼の曾孫藤原宗円が関東に下向し、常陸国八田(桜川市)に領地を構え、真壁郡あたりに勢力を広げたともいわれている。

藤原宗円−宗綱−宇都宮朝綱−業綱(成綱)−頼綱−泰綱−景綱とつづくが、朝綱以前のことは、実ははっきりしない。 また子孫には、氏家、塩谷、上三川、多功、武茂八田笠間氏がいる。

鎌倉時代

・ 朝綱

朝綱は、平氏に仕え、京都にいたが、元暦元年(1184)5月、平氏の侍大将筑後守貞能の計らいで、密かにぬけだし、頼朝のもとえ はせ参じた。頼朝は喜び、朝綱は、宇都宮検校職及び伊賀国壬生郷地頭職を源頼朝から与えられた。 平氏滅亡後、この恩に報い、朝綱は筑後守貞能の命乞いをし、貞能の子孫は、山田党と称して宇都宮氏に仕えた。 朝綱の時、八田氏と分離し、宇都宮氏を名乗る。

・ 頼綱

頼綱は、北条時政の後妻(牧の方)の娘を妻にして泰綱を産んでいる。元久2年(1205)7月北条時政と後妻牧の方が、 将軍源実朝を廃し、平賀朝雅を将軍にしようとした。先妻の子の政子と義時は、反対し、京都にいた朝雅を殺し、時政と牧の方を伊豆へ幽閉した。 頼綱も謀反の疑いをかけられた。

小山朝政に討伐を命じたが、朝政は頼綱とは親戚で仲が良いからという理由で断った。そして小山氏の仲介で、 頼綱は出家し、一族60余人の髻と誓詞を出してため、討伐は中止された。義時は小山氏と宇都宮氏が争い、共倒れをねらった。

・ 泰綱

泰綱の時、娘が北条経時に嫁ぎ、得宗外戚になっている。家禄元年(1225)執権北条泰時が創設した評定衆を、泰綱は18年間務め、 以来、評定衆・引付衆を世襲し、評定衆家に位置づけられる。

・ 景綱

建長元年(1249)執権北条時頼が創設した引付衆の長官・引付頭人となる。引付衆とは、評定衆の下で、裁判の迅速・性格を求める ものだった。評定衆が兼ねた。

・ 貞綱

そして評定衆の貞綱は、嘉元3年(1305)の嘉元の乱のとき、大仏宗宣とともに北条宗方討伐の大将となって、 宗方邸を襲い、宗方の余党を討った。

室町時代

元弘の乱では、公綱は、足利尊氏とともに楠木正成と戦う。 一時新田義貞に属するが、尊氏に味方する。

観応の擾乱では、宇都宮氏綱は、足利直義を裏切り、尊氏に味方し、さった峠の戦いで軍功をあげ、上野国、 信濃国の守護職となった。

しかし尊氏が京に去り、足利基氏が初代足利公方となると、尊氏が関東管領とした畠山国清を討ち、 上杉憲顕を管領にし、越後守護職を与えた。宇都宮氏とこれに使える芳賀氏はこれに激怒し、反旗を翻した。

芳賀伊賀守高貞は、 鎌倉街道を下野から鎌倉に向かって軍を進めた。貞治元年(1369年)、 鎌倉にいた初代足利公方足利基氏は、芳賀高貞と武州岩殿山で合戦をした(岩殿山合戦)。

足利公方に不満を持つ宇都宮氏は、応安元年(1368)2月、河越直重らと平一揆の乱を起こし、 上杉憲顕に攻めたれ宇都宮城は落城した。

戦国時代

壬生氏小山氏那須氏皆川氏等と戦う。 北条氏が下野に進出するようになると、壬生氏、小山氏、那須氏、皆川氏等と手を組み北条氏と戦う。

壬生氏、小山氏、那須氏、皆川氏、足利氏佐野氏等が北条側に侵略される中、 佐竹氏と手を組んで最後まで抵抗する。そんな時豊臣秀吉小田原征伐があり、北条氏は滅ぶ。天正18年(1590)7月秀吉は宇都宮城、 黒川城で「奥州仕置き」を行う。

宇都宮氏の滅亡

22代宇都宮国綱の時、豊臣秀吉は子のいない国綱に、(後の真壁城主、豊臣政権の五奉行筆頭)浅野長政の三男長重 を養子にするよう薦めるが、芳賀城主で、宇都宮国綱の弟芳賀高武の猛反対で、宇都宮氏は断る。 長政はこれを恨み、検地奉行として宇都宮藩を検地。18万石どころか39万石あったことが分かった。分限に応じた軍役を果たしていない ということで、宇都宮氏は改易され滅亡する。

養子を断られた三男の長重は、真壁藩主、笠間城主となる。長重の子の長直の代に播磨国赤穂藩に転封となる。 長政−長重−初代赤穂藩長直−長友−長矩と続く。 長重の曾孫が赤穂事件(忠臣蔵)で有名な浅野内匠頭長矩である。

江戸時代

江戸時代に入ると宇都宮城は、将軍が日光に参詣するときに宿泊した。そこで「釣り天井」の話が生まれる。

元和5年(1619年)徳川家康の重臣本多正純が城主となり、城と町の改造をした。 伝説では、本多正純はかつて守役をしていた忠長を3代将軍にしようとしたが、家光がなった。 そこで寛永13年(1636)家康7回忌の日光参拝の際釣り天井で家光を殺そうとした。陰謀が漏れるのを恐れ大工を殺害してしまう。 大工与五郎の霊がお稲に伝える。お稲は次第をしたためて自害。お稲の父藤右衛門が直訴に及ぶ。

史実は、秀忠の姉で家康の娘の亀姫(加納殿)が「正純に謀反あり」という密書を持参した。 亀姫(加納殿)は正純に恨みのあった。亀姫の四女が大久保忠常のところに嫁いだが、忠常の父忠隣が小田原城を没収された。 それは本多正純の讒言によるものであった。また、亀姫の孫の奥平忠昌が宇都宮城から古河城に城替えになったことも不満に思っていた。

城を詳しく調べたがどこにも不信なところはなかった。しかし、鉄砲を密かに買い入れたことなどの理由で正純は奥州 (出羽領主佐竹義宣の横手)に配流された。手紙を契機に秀忠の側近である酒井忠世、土井利勝、井上正就が、 家康に取り入った正純の排斥を図ったと見るのが正しいと思われる。本多氏が権力闘争に敗れたのである。

戊辰戦争

江戸城は無血開城したが、幕府の強硬派は、江戸を抜け出し日光を目指した。土方・大鳥らは宇都宮城に向かった。 慶応4年(1868)4月18日 新政府に味方した宇都宮藩兵が、大鳥圭介率いる旧幕府軍と戦っている最中、土方歳三が率いる別働隊が宇都宮城に攻め入り、宇都宮城は落城した。 さらに壬生を討とうとし、五十里の会津軍に援兵を求めた。22日、大鳥軍と壬生を攻めたが、成功しなかった。 逆に 4月23日 新政府軍(薩摩・大垣軍)が城を攻撃。旧幕府軍(大鳥・会津軍)は敗れて城を捨て今市に敗走した。 会津軍は五十里に引き上げ、8月22日、会津田島へそして会津若松城へ引き上げた。大鳥軍は閏4月5日、会津田島に集結した。

なお、宇都宮城主戸田忠恕親子は、戊辰戦争後、新政府から1万石の永世禄をもらう。

城の概要

本丸、二の丸、三の丸があり、天守閣はなく、天守閣の役割を持った清明台櫓、辰巳櫓、藤見櫓、東櫓、小櫓等八つの櫓があった。 昭和10年の写真では本丸の土塁と堀があった。

現在

今は建物、堀、土塁等何もない。 本丸跡が御本丸公園になり、宇都宮城に関する資料館「清明館」が建つ。 中には宇都宮城と城下町の模型、パネル、トイレ、電話、パンフあり。入館無料。駐車場あり(無料)。 平成18年に城を一部再建する計画あり。(その後、櫓を復元された。)

行き方など

JR宇都宮駅から約1.5キロメートル。東武宇都宮駅から約800メートル。 車では「いちょう通り」の「中央3丁目」信号を曲がって道なりに進と右手にある。

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