Nayana OSHOとアート


 アッシジの聖フランシスは確実に気違い病院に入っていたにちがいない。
 樹に話しかけ、アーモンドの樹に言っている、「シスター、お元気ですか?」_____もし彼がここにいたら捕まっていたにちがいない。「シスター、私に神を歌ってください」と彼はアーモンドの樹に話しかけたものだ。しかもそれだけではない_____彼はアーモンドの樹が歌うのを聞く!
 狂っている!治療が必要だ!
 彼は河や魚に話しかける___しかも彼はその魚が自分に応えると主張する。彼は石や岩に話しかける___彼は狂っているという証拠がほかにもまだ必要だろうか?
 彼は狂っている。だがアッシジの聖フランシスのようにあなたも狂いたくはないかね?ちょっと考えてごらん_____アーモンドの樹が歌うのを聞くことができる能力、樹の中の兄弟姉妹たちを感じることのできるハート、あらゆるところに、まわりじゅうに、あらゆる形のなかに神を見るハート・・・・・。
 それは最大限の愛のハートにちがいない、全くの愛がその神秘をあなたに明かす。だが論理的なマインドにとっては、もちろん、これらのことはナンセンスだ。
 私にとってはこれらだけが意味のあることだ。狂いなさい、もしできるなら、ハートから狂いなさい。

__________OSHO

Ancient music in the pines より抜粋

12月写真


2004年12月


 いまだかつて恋愛をしている人の中で、なぜ自分が幸福なのか説明できた人は誰もいない。なぜか。それは愛が大きな苦悩を内に含んでいるからだ。それでも恋人達は幸福だ。愛は深い苦悩を伴っている。なぜなら他人とひとつになるのは常に難しいことだからだ。
 ふたつのマインドがひとつになる・・・それはふたつの体がひとつになるだけの問題ではない。それがセックスと愛の違いだ。もしふたつの身体がひとつになるだけのことなら、それほど難しいことではない、苦しむこともない。それは全く簡単なことだ。どんな動物にだってできる。たやすいことだ。
 だがふたりの人間が愛し合うということ、それは非常に難しい。そのために必要なのは、ふたつのマインドが解消すること_____ふたつのマインドが無くなることだ。そうして初めて空間が生まれ、愛の花も咲く。誰も愛について理論化できない。誰も「愛は幸福を与える」とは証明できない。そもそも愛の存在すら証明できない。
 ある科学者達・・・ワトソンやスキナーを祖とする行動主義者達によれば、愛とは幻想だ。愛は存在しない。あなたはただ幻想の中にいるだけだ。たとえ自分では愛していると思っても、愛は存在しない。ただ夢を見ているだけだ____。
 そして誰ひとり、その主張が誤りだとは証明できない。行動主義者によると愛は幻だ・・・幻覚のような体験だ。実体は何もない。単に身体の化学反応が影響を及ぼしているだけだ。身体のホルモンや科学物質が行動に影響を及ぼし、偽りの幸福感を与えているだけだ___。その主張が誤りだとは誰も証明できない。
 だが奇跡とも言うべきことは、ワトソンのような人間でも恋に落ちるということだ。化学反応だと百も承知しながら、ワトソンのような人間でさえ恋に落ちる、そして幸福を感じる。だが、愛は証明されない___どこまでも内面的で主観的なものだ。愛の中で何が起こるのか。相手の方が大切になる・・・自分よりも大切になる。自分は脇に押しやられ、相手が中心になる。

 論理は常に自己中心的だ。マインドは常にエゴを中心にしている。「私」こそが中心で、全ては「私」の周囲を回り、私のためにある。「私」こそが中心だ。このように理性は働く。そして理性指向が強くなりすぎると、かつてバークリ(18世紀イギリスの哲学者)が到達したのと同じ結論に達してしまう___「ただ私だけが存在し、それ以外の全ては単にマインドの観念だ。はたしてあなたは本当に私の目の前に座っているのか・・・それがどうして私に証明できるだろう。あなたは本当にそこにいるのか・・・それがどうして論理的に、合理的に証明できるだろう。あなたはただの夢かもしれない。私はただ夢を見て、喋っているだけかもしれない。あなたは全然そこにいないかもしれない。あなたが本当にいるのかどうか、どうして証明できるだろう。もちろん、私はあなたに触ることもできる。だが、夢の中でもまた、あなたに触ることはできる。夢の中でも、誰かに触るときには、ちゃんとその感覚がある。またあなたを殴ることもできる。するとあなたは悲鳴を上げる。だが夢の中でもまた、誰かを殴ったら、その夢の人物は悲鳴を上げる。だから今こうして私の話を聞いている聴衆が、夢でなく現実だと、どうして私にわかるだろう。それは単なるそらごとかもしれない」
 精神病院に行ってごらん。そこにはきっと、ひとりで座って喋っている人がいるだろう。いったい誰を相手に喋っているのか。私もこうして喋っているが、相手は誰もいないかもしれない。いったいどうしたら相手が本当に存在すると証明できるだろう。だから、合理性というものがその極限にまで、その論理的な極限にまで行き着いたら、そのときには私だけが残り、他の全ては夢となる。理性はこのように働く。

 ハートの道は全くその逆だ。私の方が夢となり、そしてあなた、汝、相手、恋人、そういったものが現実となる。それが極限まで達すると献身になる。愛が極限の地点まで行き着いて、自分の存在を完全に忘れ去るまでになったら、もはや自分という観念は無くなり、ただ相手だけが残る。それが献身だ。
 愛は献身へと進む。愛はその第一ステップだ。それを経てこそ献身は開花できる。ところが私達にとっては、愛さえ遠い現実だ。ただセックスだけが現実だ。愛にはふたつの可能性がある___セックスへと下降して肉体的なものになるか、献身へと上昇して精神的なものになるかだ。愛はその中間にある。すぐ下にはセックスの深淵があり、上方には大空がある___献身の限りない大空だ。

 もし愛が成長し、もっと深くなったら、相手はますます重要なものとなる。その重要さゆえに、あなたは相手を神と呼び始める。だからこそ、ミーラ(インド近世の女性神秘家)はクリシュナ(インド神話のヒーロー)のことを「神」と呼び続けるのだ。クリシュナは誰にも見えないし、ミーラもクリシュナの存在を証明できない。だが彼女にとってそんな証明なんかどうでもいい。彼女はその一点を、クリシュナを、自分の愛の対象とした。
 よく言っておくが、生身の人間を愛の対象にしようと、それが単なる想像物であろうと、べつに何の変わりもない。変容は全て献身によって起こるのであって、愛される対象は関係ない。そこが肝心だ。クリシュナは全くそこにいないかもしれないが、それはどうでもいい。愛する者にとって、それはどうでもいい。

 ラーダ(クリシュナの愛人)にとってはクリシュナは現実に存在していたが、ミーラにとってクリシュナは実際には存在していなかった。だからこそ、ミーラの方がラーダよりも偉大な献身者といえる。ラーダでさえミーラを羨むことだろう。なぜならラーダにおいては実際の相手がそこにいたからだ。クリシュナがそこにいれば、彼の実在を感じることはさほど難しくない。だがクリシュナがもういないのに、ミーラはただひとり部屋に留まり、クリシュナに語りかけ、どこにもいない彼のために生きている。彼女にとって、彼は全てだ。彼女にはそれが証明できない。それは非合理だ。だが、彼女はジャンプし、そして変容した。献身が彼女を解き放った。

 私が強調したいのは、クリシュナが存在するか否かはどうでもいいということだ。クリシュナがいるというこの感覚、愛のこのトータルな感覚、この全面的な明け渡し、存在するかしないかわからない者へのこの自己の喪失、それが変容だ。突如として人は浄化される____全面的に浄化される。エゴが無ければ不浄ということもありえない。エゴこそが一切の不浄の種子だ。
 エゴの感覚こそ一切の狂気の根幹だ。感じる世界では、献身者の世界では、エゴは病気だ。エゴは溶け去る。その溶け去る道はひとつしかない、その他に道はない。ただひとつの道、それは、相手が重要なものとなることによって、自分が少しづつ色あせ消えていくということだ。そして、ある日自分はもういなくなり、ただ相手への意識だけが残る。
 自分がいなくなると、相手もまた相手ではなくなる。相手が相手であるのは、自分がいるからこそだ。「我」が消え去るとき、汝もまた消え去る。愛の中であなたは第一のステップを踏む____相手が重要になる。だが自分はそのままだ。ところが時々、自分がいなくなるような絶頂点が現れる。それは稀に見る愛の絶頂だ。普通は、自分はそのままで、恋人がそこにいる。その恋人が自分より重要になったとき、あなたは相手のために死ねるようになる。もし誰かのために死ねるようなら、そこには愛がある。相手こそが自分の生の意味となる。
 そして誰かのために死ぬことができて初めて、誰かのために生きることができる。誰かのために死ぬことができなかったら、誰かのために生きることもできない。生が意味を獲得するのは死を通じてだけだ。

 愛の場合、相手が重要になってはいるが、自分も依然として存在している。もしある段階までコミュニケーションが高まれば自分が消え去ることもあろうが、また元にもどってしまう。それはしばらくの間だけだ。だから恋人達は献身を垣間見る。

 インドでは、恋する女達は自分の恋人を「我が神」と呼んできた。頂点に至って初めて相手は神となる_____自分がいなくなって初めて相手は神となる。それは成長する。もしそれをサダナ(修行)としたら、もしそれを内的な探究としたら、もし単に愛を楽しむだけでなく、愛を通じて変容しようとするなら、それは献身となる。

 献身において、あなたは自分自身を完全に明け渡す。そしてこの明け渡しの対象は何でもいい。神でもいい、その神が天空に存在していようといまいと・・・。教師でもいい、その教師が目覚めていようといまいと・・・。恋人でもいい。その恋人が、相手としてふさわしくあろうとなかろうと・・・。相手のために自分が溶け去っていくようなら、あなたは変容する。

   献身は、解き放つ。

 だからこそ私達は、愛の中で初めて自由を垣間見るのだ。愛しているときには、微妙な自由がある・・・こう言うと逆説的に聞こえるだろう。人々はきっとふたりが奴隷になったと思うだろう。もし誰かに恋したら、周囲の人々はきっと、「ふたりは互いの奴隷になった」と考える。だがふたりは自由を垣間見る。愛とは自由だ。

 なぜか。それは、エゴが束縛だからだ。エゴの他に束縛はない。たとえばあなたが牢獄にいて、逃げることは不可能だとする。だがもし恋人がその牢獄に入ってきたとしたら、その牢獄はたちまち消え去る。壁はそのままだが、もうあなたを閉じこめることはない。あなたはすっかりそれを忘れ去る。ふたりはお互いに溶け合う。互いが相手に対して大空となり、その中で飛ぶことができる。牢獄は消え去った。もはやない。

 ところが一方、実際の大空のもと、全く自由で、縛られることがなかったとしても、愛がなかったら、牢獄の中にいるのと同じだ。飛ぶことができない。この大空ではどうしようもない。
 鳥ならばこの大空も飛べるだろう。だがあなたは飛べない。あなたに必要なのは別の空____意識の空だ。相手だけが、その空を、その最初の味わいをもたらしてくれる。相手があなたに対して開いていて、あなたがその中に入っていけば、飛ぶことができる。
 愛は自由だ、しかし全面的(トータル)ではない。愛が献身になれば全面的な自由になる。それはつまり自分を全面的に明け渡すことだ。だから感じるタイプの人間にとっては、このスートラ、

   献身は、解き放つ

が向いている。

 ラーマクリシュナ(今世紀期初頭インドの神秘家)を例にとってみよう。ラーマクリシュナといえば女神カーリーの奴隷のように見えるかもしれない。女神の許しがないと何もできない。まさに奴隷のようなものだ。だが彼以上に自由な者はいなかった。初めてダクシネシュワールの寺院(カルカッタにあるヒンドゥー寺院)の僧侶に任じられたとき、彼は奇妙なふるまいを始めた。そこで世話人達は集まって語り合った、「あの男を放りだそう。あんなふるまいは非献身的だ。」そうなったのも、彼がまず自分で花の匂いを嗅いでから、それを女神の足許に置いたりしたからだ。それでは儀礼に反する。匂いを嗅いでしまった花を神に捧げてはいけない___そんな花は不浄だ。
 あるいは、捧げ物として用意した食物を、味見してから捧げたりした。僧侶だったにもかかわらずだ。世話人達は言った、「いったい何をしている。そんな事をしてはいけない。」彼は言った、「それならこの職を去ろう。寺から出ていこう。食物を味見しないで母神に捧げるなんてとてもできない。私の母親はいつも味見をしていた。何かを作ったときにはいつでも、まず自分で味見してから私にくれた。また匂いを嗅がずに花を捧げるなんてとてもできない。だから私は出ていこう。でも私は好きなようにする、邪魔立てはできない。私がどこにいようと<母>への捧げ物は止めない。<母>はどこにでもいる。<母>は何もこの寺院に閉じこめられているわけではない。だからどこにいようと、私は同じことをする。」
 こんなことがあった。あるイスラム教徒が彼に言った、「もしあなたの<母>がどこにでもいるなら、何故あなたはモスクへやって来ない。」ラーマクリシュナは言った、「よし、では行く。」そして彼は六ヶ月間そこに留まった。ダクシネワールのことはすっかり忘れて、ずっとモスクにいた。そこで彼の友人は言った、「もう帰ってきたらどうか。」すると彼は言った、「どこにでも<母>はいる。」
 だから人は彼のことを奴隷だと考えるかもしれない。だが、彼の場合、献身の結果、もはや愛する相手がどこにもいるほどになった。
 もしあなたがどこにもいなくなれば、愛する相手はどこにでもいる。もしあなたがどこかにいれば、愛する相手はどこにもいない。

__________OSHO

第三の眼(VIGYAN BHAIRAV TANTRA)より抜粋

11月写真


2004年11月


クラブに行く、会合に出かける
パーティに顔を出す、群衆の中に入ってゆく・・・
そこではあなたは一人では無い
あなたはあまりに自分を恐れているから
一人にさせられたら狂ってしまう
たった三週間
もしあなたが一切の活動なしに全くの一人にさせられたら
三週間であなたは狂う
これは別に宗教人達によって言われることではない
今では心理学者達も同意している
たったの三週間、もしあらゆる活動、同伴者をあなたから取り去ったら
もしあなたが一人で部屋の中に取り残されたら
三週間の間にあなたは発狂する
なぜならあなたがたの活動とは、ただあなたがたの狂気を放り出すための
ものにすぎないからだ
それは浄化作用(カタルシス)になっている

一人っきりになったら、あなたは何をするかね?
最初の三日か四日は
あなたは夢想したり、内側で話をしたりする
内なるお喋りだ
そのうちこれにも飽きて
一週間位経つとあなたは声を出して話し始める
少なくともこれで自分の声が聞こえる
暗い夜道を歩くとき口笛を吹く・・これは何故だろう?
どうしてこの口笛があなたを勇気づけるのだろう?
どうしてこの口笛が助けになるのだろう?
それに耳傾けることで一人ではないと思えるからだ
誰かが口笛を吹いていると思えるからだ
二人という幻想が生み出されるのだ
一週間過ぎる頃にはあなたは声を出して話し始める
それを聴くためだ
あなたは一人ではなくなる
あなたは話し手でもあり聴き手でもある
あたかも誰かが語りかけているかのようだ
二週間経つとあなたは自分に応え始める
話すだけではない、今度はそれに応え始める
あなたは分裂する
今やあなたは二つになる
問いかける者と、それに応える者に
今や対話がある
あなたは完全に狂ったのだ!

ある男が精神分析医に尋ねた
「気になるんですが、私は自分に話しかけるんです。どうしたらいいでしょう?
 助けて頂けますか?」
その精神分析医は言った
「そんなことは心配するに及びません。誰でも自分に話しかけるものです。
 これは大きな問題ではありません。自分に応え始めるようになったら、
 その時には私の処にいらっしゃい。
 その時には私も助けになるでしょう。」
しかし、この違いは紙一重だ
これは質の差ではなく、量的な差にすぎない
もしあなたが自分に話しかけるようになったら
遅かれ早かれ、それに応え始めるようになるだろう
ただ話しかけてばかりいることなどできるかね?
応えが必要になる
さもなければ自分が馬鹿のように感じてくる
三週間目には、あなたは応え始めるようになる
あなたは狂ったのだ_______

この世間
活動の、ビジネスの世間
従事することでいっぱいの世間が
あなた方を精神病院行きから救っている
もし何かに従事していたら、エネルギーは外に出てゆく
そうなったらあなたは
内側の世界、内面の世界について気にかける必要はない
そんな事は忘れていられる

道・TAO の人は多く活動する人ではない______
絶対必要な活動だけしかしない
荘子について伝えられていることだが、彼は立っていられるものなら
座ろうとはしなかったそうだ
座っていられるものなら立とうとはしないし、眠っていられるものなら
起きようとはしない
必要なこと、最も本質的なこと、どうしてもしなければならない事しか
彼はやらなかった
その内部に狂気がないからだ

__________OSHO

虚空の舟(THE EMPTY BOAT)より抜粋

10月写真


2004年10月


 愛、信頼、美しさ、誠実さ、正直さ、真性さ___これらは全て女性的な資質であり、それらは男性が持っているどの資質よりも遙かに偉大だ。しかし、過去全体は男性によって、男性の資質によって支配されてきた。当然、戦争では愛は役に立たない。真理は役に立たない。美しさは役に立たない。美的感覚は役に立たない。戦争では、石よりも硬いハートが必要だ。戦争では、ただ憎しみが、怒りが、破壊しようとする狂気が必要なだけだ。
 三千年もの間、人間は五千もの戦争をしてきた。そう、これもまた強さではあるが、人類にとっては何の価値もない。これは私達の、動物の遺産として受け継がれた強さだ。それは過去のものであり、去ったものだ。が、女性の資質は未来のものだ。それはやって来つつある。
 女性の資質のせいで、自分は弱いのだと感じる必要はない。あなたは男性が苦労して手に入れなければならないものを、贈り物として自然から与えられているということを、存在に感謝するべきだ。
 男性は愛し方を学ばなければならない。男性はどうやってハートを主人にし、マインドを従順な召使いにするかを学ばなければならない。男性はこれらの物事を学ばなければならない_____女性はこれらを自ら携えている。しかし、私達は、これら全ての資質を弱さとして非難する。たとえあなたが女性を偉大な個人として選んだとしても、あなたは自分が何を選んだのかを見ることができる____あなたは男性を選んだのだ。それは、あなたがその女性の中にあった男性の資質を選んだからだ。
 例えば、ジャンヌ・ダルクは男性の資質を全て持っていた。インドのジャンシー女王は男性の資質を全て持っていた。彼女は真剣で闘い、何の問題もなく人々を殺すことができた。そういった女性達が歴史上では選ばれ、歴史家達によって多大な賛辞を送られてきた。だが、彼女達は女性を代表してはいない。事実、それこそが、彼女達が選ばれた理由だ_____彼女達は、まさに男性の生き写しだからだ。
 女性解放運動は初歩的なことをひとつ学ばなければならない。つまり男性の真似をしないこと、男性が女性の資質、女性の性格について言っていることに耳を傾けないことだ。彼があなたの頭に詰め込んできた男性の考えを全て落としなさい。
 さらにまた、女性解放という考えも落としなさい。というのは、それらもまた、あなた方のマインドの中に馬鹿げたことを詰め込んでいるからだ。その馬鹿げたことというのは、男性と女性は同等だということを証明しようとすることにある。だが、そうではない_____そして、私がそうではないと言うとき、私は誰かが優れていて誰かは劣っているという意味で言っているのではない。私は、彼らが互いにユニークであると言っているのだ。
 女性は女性であり、男性は男性だ。比較という問題は起こってこない。平等は問題外だ。彼らは不平等でもないし、平等でもありえない。
 自分の女性の資質を喜び、あなたの女性の資質の詩を創りなさい。それは自然から受け継いだ、あなたの偉大な遺産だ。それを投げ捨ててはいけない。男性はそれを持っていないからだ。

__________OSHO

Sermons in Stones より抜粋

9月写真


2004年9月


”反応と感応の違いは何ですか?”

それは大きい
大変な違いがある
量的にだけではない
質的な違いだ
反応は過去から来る
感応は現在から来る
あなたの反応は過去の古いパターンから出て来るのだ

誰かがあなたを侮辱する
と、突然
古いメカニズムが機能し始める
過去に人々があなたを侮辱したとき
あなたは特定の振るまい方をした
あなたは今度もまたその同じ振るまい方をする
あなたは今回の侮辱と今度の人に感応しているのではない
あなたはただ古い習慣を繰り返しているだけだ
あなたはこの人とこの新しい侮辱に目をやってはいない
それには違った味がある
が、あなたはただロボットのように機能しているにすぎないのだ
あなたは内側にある種のメカニズムを持っている
あなたはそのボタンを押して
_____「この人は自分を侮辱した」______
そして、それに反応するのだ
それは現実の状況に対する反応ではない
それは何か投影されたものだ
あなたはこの人の中に過去を見たのだ

こんなことがあった
仏陀が木陰で弟子達に話をしていた
と、ある男がやって来て彼の顔にツバを吐いた
仏陀はそれを拭うと
その人にこう尋ねた
「さて、次は?
あなたは次に何を言いたいのかね?」
男はちょっと面くらってしまった
顔にツバを吐いたのに
その相手が
「さあ、次は何かね?」
などと聞くとは夢にも思っていなかったからだ
彼はそれまでそんな体験をしたことがなかった
彼が侮辱すると人々は腹を立てていた
彼らは反応していた
あるいは、もし彼らが臆病者で弱虫だと
笑顔を見せて機嫌を取ろうとした
ところが、仏陀はそのどちらでもない
彼は腹を立ててはいなかったし
別に気を悪くしてもいなかった
別にビクビクしてもいなかった
そのかわり、ただあたり前のこととして
「次は?」と言ったのだ

弟子達は腹を立てた
彼らは反応したわけだ
仏陀の一番弟子であるアーナンダはこう言った
「これはあんまりです
私達には我慢ができません
あなたの教えはあなたの懐に納めておいて下さい
けれども、私達はこの男に
あんな事は許されないのだと目にもの見せてやります
ああいうのは懲らしめてやらねばなりません
さもなければ、誰もかれもこんな事をし始めるでしょう」

仏陀は言う
「お前は黙っていなさい
彼は私の気分を悪くしはしなかった
とこらが、お前の方が私の気分を悪くする
彼は新来者だ
門外漢だ
彼は誰かから私について何かを聞いたのだろう
ある考え
私に関するある観念を持ったのだろう
彼は私にツバを吐いたのではない
自分の観念
私に関する彼の考えにツバを吐いたのだ
というのも、全く私のことを知らないのに
どうして彼が私にツバを吐くことができる?
彼は皆から私について何か聞いてきたに違いない
「あいつは無神論者だ
人々の道を踏み誤せる危険人物だ
革命家だ
背徳者だ」_____
彼は私について何かしら耳にしたに違いない
彼はある観念を抱いた
彼は自分自身の考えにツバを吐いたのだ」

「もし深く考えてみたならば」
仏陀は言った
「彼は自分自身の心(マインド)にツバを吐いたのだ
私はそれにはからんでいない
それに、私にはこのかわいそうな男が
何か他に言うことを持っているに違いないことが見て取れる
なぜなら、これは何かを言う言い方のひとつだからだ
ツバを吐くというのは、何かを言い表すひとつの方法なのだ」

言葉が無力に感じられるときというのがある
深い愛のなかで
深い怒りのなかで
憎しみのなかで
祈りのなかで
言葉が無力なものと化してしまう強烈な瞬間というものがある
そうしたとき
あなたは何かをせずにはいられない
深い愛のなかにあるとき
あなたはその人に口づけをするか
その人を抱擁する___
あなたは何をしているのだろう?
あなたは何かを言い表しているのだ
腹を立てていると
猛烈に腹を立てていると
あなたはその人を殴る
その人にツバを吐く
あなたは何かを言い表しているのだ

「私には彼を理解することができる
彼は何かもっと言うことがあるに違いない
だから私は
「それで次は?」
と聞いているのだ」

男はますますわけが解らなくなってしまった

そして仏陀は弟子達にこう言う
「私はアーナンダの方にもっと気分を悪くしている
なぜならば、アーナンダは私を知っているのだし
何年間も私と暮らしてきているはずなのに
依然として反応などするからだ」

面くらって
混乱して
男は家へ帰っていった
彼は一晩中眠れなかっった
それは難しい
ひとりの仏陀を見てしまったら
それまで通りに眠ることは難しい
不可能だ
何度も何度も彼はその体験にうなされた
彼は何が起こったのか
自分で説明をつけることができなかった
彼は全身を震わせて大汗をかいていた
彼はそれまで一度もそのような人間に行き会ったことがなかった
仏陀は
彼のマインドと彼のパターンの全体を粉砕してしまった
彼の過去全体を_____

翌朝
彼は戻って来ると、仏陀の足元に見を投げ出した
仏陀はもう一度彼に尋ねた
「それで、次は?」______

これもやはり言葉では言い表せないことを言うひとつの方法だ
私の処へ来て、私の足に触れるとき
あなたは何か普通の言い方では言えないこと
それを言い表すにはどんな言葉も少し狭すぎるようなことを言っているのだ
それは言葉には含み込まれ得ない

仏陀は言った
「ごらん、アーナンダ
この男はまたやってきた
彼は何かを言っている
この男は深い感情を持った人間だ」

男は仏陀を見るとこう言った
「私が昨日やったことをお許し下さい」

仏陀は言う
「許す?___
しかし私はあなたがツバを吐いたその同じ人間ではない
ガンジスは流れ続けている
それは二度と再び同じガンジスではない
どの人間もひとつの川だ
あなたがツバを吐いた人間はここにはいない
私はその人そっくりには見える
が、私はその同一人物ではない
この24時間のうちに多くのことが起こった!
川は大変な勢いで流れていたのだ
私が同じに見えるのは見かけの上でしかない
だから、私にあなたを許すことはできない
私にはあなたに対して何の恨みもないのだから_____
そして、あなたもまた新しい
私にはあなたが昨日来たその同じ人ではないことが解る
あの人は腹を立てていた
彼は怒りそのものだった
彼はツバを吐いた
しかし、あなたは私の足元にひれ伏して私の足を頂いている
どうしてそのあなたが同じ人間でありえよう?
あなたは同一人物ではない!
さあ、そんなことは忘れようではないか
ツバを吐いた人間と、ツバをかけられた人間と
二人とももういない
もっと近くにおいで
何か他のことを話そうではないか」

これが感応だ

反応は過去から来る
もし昔ながらの習慣から
マインドから反応するとしたら
あなたは感応はできない
感応できるということは、この瞬間
今ここにトータルに生きているということに他ならないのだ

感応というのはビューティフルな現象だ
それは生そのものと言っていい
反応は死んでいる
醜い
腐っている
それは屍だ
99パーセントの時間あなたは反応する
そして、それを感応と呼ぶ
あなたの人生に感応などたまにしか起こらない
しかし、いつであれそれが起こるときには
あなたはある一瞥を持つ
いつであれそれが起こるときには
<未知>への扉が開くのだ

家へ帰って
奥さんを反応ではなく感応を持って見てごらん
人々の中には
ひとりの女性と30年も40年も一緒に暮らしてきているのに
彼女を見るのを止めている連中がいる!
彼らは
それが女房だ、カミさんだということは分かっている
そんなことは分かりきっていると思い込んでいる
しかし、川はその間ずっと流れていたのだ
この女性は彼が結婚したその同じ女性ではない
それは過去の現象だ
そんな女性はもうどこにも存在しない
ここにいるのは全く新しい女性なのだ

毎瞬のように、あなたは新しく生まれ変わっている
毎瞬のようにあなたは死に
毎瞬のようにあなたは生まれている
しかし、あなたは近頃自分の奥さんを
自分の母親を
自分の父親を
自分の友人を見たことがあるだろうか?
あなたは見るのを止めている

みんな相変わらずだと思っているからだ
「だったらそんな連中を見て何の意味がある?」_____
帰って
新鮮な目でもう一度見直してごらん
見知らぬ人を見るように____
するとあなたは
古女房がどれだけ変わっているかということにびっくりするだろう
途方もない変化が毎日のように起こっている
それは流動だ
何もかも流れ続けている
何ひとつ凍りついたものはない
しかし、マインドは死んでいる
それは凍結した現象なのだ
もし凍ったマインドから行動したら
あなたは死んだような生を送ることになる
あなたは本当には生きてやしない
もうすでに棺桶に入っている

反応を落としなさい
そして、もっともっと感応を許すのだ
感応するresponsiveということは責任を持つresponsibleことだ
感応するということ
責任を持つということは敏感であるということだ
ただし
「いま」と「ここ」に敏感であるということ_______

__________OSHO

TAO 3 より抜粋

8月写真

2004年8月


これは、愛の道における秘密の全容だ
動機のない愛は
あなたの存在全体を愛のエネルギーに変容させる
愛のエネルギーと化すことは、神聖なるものになることだ
必要なのはただそれだけだ
それは人が求め、夢見るものを遙か超えるほどのものだ
それは完全なる成就と開花をもたらす
あなたは花開く
意識の花々が、あなたの中で花開き出す

__________OSHO

夜眠る前に贈る言葉
(A must for contemplation before sleep)
month 4 −瞑想は火− No.20

7月写真


真理はシンプルだ
が、その詳細を追求し、その実体の中へ深く入り始めると、それは難しくなる
たとえば、聖アウグスチヌスはこう言ったと伝えられている
「誰もが時間が何であるか知っている。私も時間が何であるか知っている。
 だが誰かが、ー時間とは何か?それを私に説明してみて下さいーと私に訊ねたら
 そのときには私は途方にくれる」

あなたは時間というものを知っている
あなたは時間に従って生活している
朝の6時に起き、夜の11時に眠りにつき、午後の1時に昼食をとる
あなたは会社に行き、あなたは家に帰る
あなたは時間を使う
あなたは時間が何であるか知っている
だが、あなたはそれを説明できるだろうか?
説明しようとした瞬間、それは捕らえどころのないものになる
あなたはそれを見たことがない、決してそれを手にとって見たことがない
あなたはそれを掴むことができない
それはいったい何だろう?

アウグスチヌスは正しい
問題は、それを説明しようとしたときに生じる
光はとても単純だ
それはいたるところにあり、樹の上で舞っている
大空全体が光に満ちている
それを盲人に説明してごらん
そうすれば、彼は退屈して「そんなナンセンスはよして下さい」と言う
第一、それをどうやって言葉にするかがとても難しいということがわかる

いや、光の問題は止めよう
それは科学的な問題だ、あなたはそれに興味がないかもしれない

あなたは愛したことがある
あなたは愛が何であるか知っている
あなたは愛したことがあるに違いない
少なくとも自分の母親、父親、姉妹、女性、妻、夫、子供を愛したことがあるに違いない
あなたは愛とは何か説明できるだろうか?
そう聞かれると、あなたは黙り込む
そうなったら、突然、あなたは知性を全て失う
まるで誰かがあなたを撃ち殺してしまったかのように_____
あなたは麻痺する
愛とは何か?
あなたはそれを定義できるだろうか?

愛は、多かれ少なかれ、あらゆる人の体験だ
だが、誰一人それを定義できない
ニルヴァーナは必ずしも万人の体験ではない
ニルヴァーナが起こるのは希なことだ
そして、仏陀はニルヴァーナとは何かをあなた方に説明しようとしている
真理はシンプルだが、説明しようとした途端にそれは難しくなる

しかし、憶えておきなさい
あなた方がここにいるのはただ楽しむためだけではない
私はエンタティメント(娯楽)に反対しない
それは余暇にはいい
だが、エンタティメント以上のものが必要だ
それだけがあなたのエンライトメントになる
エンタティメント(娯楽)はごく低い必要性だ
エンライトメント(光明)は最も高い必要性だ
次から次へ娯楽を追いかけるだけなら、あなたは浅いままだ
あなたは決して成長せず、未熟なままだ
ときには、あなたは生や愛、光や神の光の中へ入っていかなければならない
ときには、それを味わうために永遠の中へ飛翔しなければならない
ただそれだけがあなたを成熟させる

私はあなたの困難はわかる
あなたは「私はこれらの仏陀の経文を楽しめません」と言う
それなら、楽しみ方を学ぶことだ
それなら、もっと高いものの楽しみ方を学ぶことだ
もっと高いものがある
もしインドの古典音楽を楽しみたいとしたら、あなたは学ばなければならない
ただちょっと行ってそれを楽しむというわけにはいかない

それにはそれなりの準備があなたの中に必要だ
それにはある受容性があなたの中に必要だ
それは卑俗なものではない
それにはあなたの中に、ある種の理解が、音と沈黙に対する深い理解が必要だ
というのも、音楽は音と沈黙から成り立っているからだ
それは単に音だけではなく、その中には沈黙が含まれている

音楽がより高く深くなっていくのは
それがその中にもっと沈黙を含むときだ
それがあなたの沈黙を触発するときだ
それがあなたのハートに浸み入り、あなたの内なる沈黙を解き放つときだ
それを聴いてあなたのマインドが消え、あなたの思考が停止するときだ・・・
しかしその場合には、あなたは学ばなければならない
あなたはある一定の修練を通り抜けていかなければならない
あなたはもっと瞑想的にならなければならない
そうすればある日、あなたはそれを楽しめるようになる
だが、今現在それを楽しみたいのに自分にその用意ができていないとしても
その音楽を非難してはならない

「仏陀の経文は退屈だ」とは言わないことだ
ただこう言いなさい
「私にはまだその豊かさ、その完全性を理解する力がない
 私にはその高みを見るだけの力がない
 意識のエベレストに登るほどの力がない」
仏陀は最高の山頂から語っている
あなたは自分の暗い穴からほんのわずかでも抜け出さなければならない
あなたはその山を登らなければならない
そうして初めて、あなたはこれらの光輝くスートラを理解できる

それが難しいのは、私達がその理解のための準備を全然していないからだ
そのために、ときとして退屈を感じることがあるかもしれない
しかし、退屈さと闘いなさい、退屈さを打ち破りなさい
自分自身をそこから引き上げなさい
あなたは仏陀と共に行かねばならない
あなたは彼が見たものを見なければならない
それを見れば、あなたは満たされる

__________OSHO

ダイヤモンド・スートラ ( THE DIAMOND SUTRA )より抜粋

2004年7月


生はただの花の寄せ集めに終わることもあれば
花冠へと変容を遂げることもある
あなたの生は単なるばらばらな花の寄せ集めのようなものだ
どんな有機的な統一もない
それは大勢の自分、大勢の「私」の寄せ集めにすぎない
その私ひとりひとりが主権争いをしている
人はそうした絶え間ない内なる闘争の中に生きている
どの自分も別々の方向にあなたを引っ張ろうとしている
あなたは常にばらばらにされてしまう

だが全面的に違った方法で生を生きることもできる
ばらばらの花々は紐で結ぶこともできる
すべてを貫く何かによって、方向感覚に気づき
より意識的になることによって
そうなれば、生はもはや偶発的なものではなくなる
あなたはもはや、ただの寄せ集めではない
統合された実存となり始める
より結晶化され、統一されるにつれ喜びはさらに増してくる
どれほど多くの至福を受け取れるかは統合の度合い次第だ
断片的な人間は惨めなままであり
統合された人間は至福へと到達する

生命の糸となることだ
そうすればあなたの生のあらゆる花々を
ある種の調和のうちに編みあげることができる
生はただの騒音からオーケストラへと変容する
そこには壮大なる美と至福がある

__________OSHO

夜眠る前に贈る言葉
(A must for contemplation before sleep)
month 6 −あなたは空− No.14

6月写真


・・時には宗教は論理の言葉を話す。その場合、それは神学となる。また時には詩情の言葉で話す。その時にはそれは客観芸術となって表れる。タージ・マハールがそれだ。
 初めてタージ・マハールを見るとき、客観芸術というものが何であるかあなた達にも解るだろう。タージ・マハールのような芸術作品を前にしたら、あなた方はただ座って眺め、見るだけだ。すると急に静けさがあなた方を取り巻く。安らぎがあなた方の上に降りてくる。タージ・マハールの構成そのものが、あなた方の内奥に在るものと関わるのだ。その形をただ見ているだけで、あなた方の中の何かに変化が起きる。

芸術には二つのタイプがある。
ひとつは主観芸術であり、たとえばピカソの芸術がそれだ。ピカソの絵を見ていると、ピカソという人はどんなタイプの志向の人、どんなタイプの考えを持つ人だったかがよく解る。なぜなら彼は、自分の頭の内にあるもの、想念の内にあるものを描いているからだ。彼は悪夢の内に生きていたのに違いない。彼の絵はすべて悪夢のようじゃないか・・・。彼の絵を長い間見ていることはできない。気分が悪くなったり吐き気がしたりしてくる。彼が色彩の中に描いたのは彼の内なる狂気なのだ。そして、その狂気には伝染性がある。これが主観芸術だ。
 それが何であろうと、絵であろうと彫刻であろうと、あなたが自分の内なるものを表すとしたらそれは主観芸術だ。
 客観芸術では、創る人の思念は持ち込まれない。それを見る人を変えてしまうような、瞑想に導くような幾つかの客観的な法則に従って創られる。
 東洋の芸術は全て、客観的であろうと努めてきた。芸術家個人は作品の中に巻き込まれない。絵描き個人は忘れられ、彫刻するその人は忘れられる。建築家も忘れられる。彼らは自分達を作品の中に巻き込まない。彼らがひとつの芸術作品を創るときには、ただ或る幾つかの客観的法則に従うだけ。そして何世紀にも渡って、人がそれを見るたびに、その人の内に瞑想的な何かが起こる。
 満月の夜、タージ・マハールの近くに座り、黙って、ただ静かに瞑想する・・・。時が消えていき、時の無い瞬間が起こる・・・。と、タージ・マハールがそこに、外の世界にあるのでは無く、何かがあなたの中で変化してゆく_____。
 頭とか想念のこの世界に「現実」リアリティをもたらすために、時々宗教は客観芸術を通して語ることをする。時には論理を通して語ることもする。そういう時にそれは神学となって議論が生まれる。しかしどちらの場合も、この世界との妥協にすぎない。ごく普通の平凡な精神との妥協だ。普通の心の内に宗教をもたらすための妥協____。
 宗教が純粋にそれ自身の言葉をはく時には、ちょうど老子の道徳経のように逆説に満ちたものとなる。ヘラクレイトスの断片的な言葉や、ここに取り上げているような禅の逸話なども同じことだ。

 宗教が純粋にそれ自身である時には、論理と想像のその両方を超えてしまう。宗教はその超えたところ、「彼方」そのものと言っていい・・・。

__________OSHO

草はひとりでに生える ( The Grass Grows By Itself )より抜粋

2004年6月


人々は怒りや嫉妬、所有欲、自我(エゴ)を抱えながら
実に粗野に生きている
こうした粗野な要素を
ひとつ残らずその実存から取り去ってしまうことだ
なぜならそれらは多大なエネルギーを破壊し
数々の機会を無駄にするからだ
そうしたエネルギーは全て
歌や喜びや愛や平和へと変容させるべきだ
すると生は詩的なものとなり
ただ在ることが真の喜びとなる

ただ存在することは
それ以上望むべくもないものであり
ただ呼吸することは
充分に神の実在の証となる
呼吸のひとつひとつが
あり余るほどの歓喜をもたらすのだから
生はハーモニーやメロディ
そしてダンスとなる____
そんなことが可能だとは信じがたいだろう
それが本当に起こって初めて人は確信するに至る

__________OSHO

夜眠る前に贈る言葉
(A must for contemplation before sleep)
month 6 −あなたは空− No.22

5月写真


・・・全ての宗教が生否定的だった。それこそがこれだけ多量の破壊性を人間の心に生み出した原因だ。もし諸宗教が沈黙、平和、瞑想を学び、生を愛し、生を、踊ることを人々に教えていたら、ロナルド・レーガンのような白痴は現れなかっただろう。生に対する人間の愛、喜びに対する人間の愛、笑い、踊り、音楽を奏で、歌うことへの人間の愛を破壊しているのは、あらゆる宗教だ。何もかもが宗教によって否定されてきた。その最終結果として、人間に内在する全ての創造的エネルギーが自己破壊的なものに転じてしまった。
 人々が何故こうまで破壊に関心を寄せるのか、誰もそれを正確に分析してはいない。創造の喜びはどこに消えてしまったのだろう?全ての責任は宗教にある。こういった政治家たちは、ただ宗教が説いてきたイデオロギーを持ち回っているだけだ。生否定的ないかなる種類のイデオロギーも危険だ______殺人光線よりも危ない、核ミサイルよりも危ない。

 世界を、仏陀やマハヴィーラやボーディダルマのような人々を生んできた世界を、不必要な破壊から守りたいと望むなら・・・。これほどの意識の高みに至ることができた地球には、救うだけの価値がある。全宇宙は広大無辺だが、生命がどこかで我々が至ったほどの高みに到達しているという確証はない。全宇宙で、五百の惑星にはある種の生命が存在するはずだと言われている。だが、それはあくまでも推測だ_____科学者たちが推測しているのだから、いくらか可能性はあるに違いないが。
「この広大な宇宙のどこかには、地球以外にも仏陀の意識を生んだ惑星が存在する」と確信を持って断言できるものはひとりもいない。それなのに、あなたがたはこの地球を破壊しつつある______広大な宇宙のなかで、小さな惑星が意識の最高峰にまで至った唯一の場所を。それは人類に対する犯罪に留まるものではなく、全宇宙に対する犯罪だ。
 戦争は「神」ではない。人間が戦争の犠牲になるべきではない。だが、刻一刻と近づいてくるこの破壊から人間を救うには、さらなる愛を拡め、さらなる自由、さらなる「個性」を拡める以外に道はない。より以上の生命肯定こそが、この美しい地球と、その途方もない可能性が破壊されるのを防ぐことのできる唯一の道だ。
 人間は狂ったまま絶えず争いを続けてきたが、それにもかかわらず少数の「個」たちは創造し続けてきた。私たちはレオナルド・ダ・ヴィンチを誇ることができるし、ミケランジェロを誇ることができる。私達はレオ・トルストイを誇ることができるし、フョードル・ドストエフスキーを誇ることができる。私達は荘子を誇ることができるし、臨済を誇ることができる。大衆の狂気にもかかわらず、数知れぬ花が依然として成長し、花を咲かせ、いまだに生命を保つその途方もない芳香は、ひとつの存在から別の存在へと移り続けている。
・・ひとりの仏陀の美しさ、気品、薔薇のような輝きのことを思うと、地球全体を墓場に変えてしまうこと以上に凶悪な犯罪はない。だが、それは記録には残るまい。なぜなら、記録を取る者がひとりもいなくなるからだ。誰もが焼き尽くされる。誰ひとり勝利することなく、誰ひとり敗れることもない。その差はたったの10分だ・・・

 臨済は言っている。「場所がどこであろうと、相手に理解できようができまいが、深遠なものごとを述べてかまわない。それは種のようにその人の中へ落ちる。今日でなくても、明日か明後日には、雨が降って種が芽を吹くかもしれない」
 あなたは今日は理解しないかもしれないし、今日はそれを無視するかもしれない。だが、明日のあなたのことは誰にも解らない。明日になれば、自分の無意識の心(マインド)の中にどれほど素晴らしい種子がまかれていたか、不意に気づくかもしれない。
 だから、臨済の見地はこうだ。相手に理解する能力があるかどうかは大したことではない。自分が持っているなら、それを分かち合うがいい。相手に受け取る価値があるかどうかなど構わないでいい。
 誰もが本質的にひとりの仏陀だ。遅かれ早かれ、相手もそのことを理解するだろう。それはあなたの存命中には起こらないかもしれない。あなたは生きていないかもしれない_____だが、理解が起こるその日、彼は大地にぬかずくだろう。準備さえできていないときに、存在の全ての扉を開く、まさにマスター・キーを授けてくれたことに対する深い敬意と感謝を込めて。
 彼は普化に同意しない。普化の見地はごくふつうで実際的だ。普化は言う。「聞き手の心に全く無縁なことを話して何になるというのです?」
 だが、この瞬間に理解されないことでも・・・ふと真夜中にそれが解けるかもしれない。くつろいで沈黙しているときに、突然、大いなる自覚が起こるかもしれない。そして、何を取り逃がしていたかに気づくようになる。たとえ朝取り逃がしたとしても、夜になって気づくなら問題はない。いつ気づこうとも、決して遅いということはない。

 臨済の場合は、豊かさゆえに自らを分かち合っている。彼はまさに、どこに雨を降らせても構わないほどに濃密に雨滴を含んだ雨雲だ。彼は重荷を下ろさなければならない。そして普化もまた正しいが、その次元はかなり低い。彼は「自らの洞察は、理解する人々にのみ与えるべきだ」と言っている。だが、もし仏陀たちがそんなに物惜しみするようになったら、生は人々の意識に起こる意義深い爆発を大いに喪失してしまう。なぜなら、ときには偶然仏陀を訪ねてきた人に、突如その火が燃え移るということも起こるからだ。
 生の神秘は限りなく深い。ある人が何年も真理を探究していながら、探すというその行為によって_____探す方向が間違っているために______いっそう真理から遠ざかっていくということが起こる。またある人は、真理とは縁もゆかりもない不意の訪問者で、真理のことなど一度も考えたことはないが、純真無垢で偏見や観念を全く持っていないかもしれない。その人が師のもとに充分に近づけば、彼が突如として炎と化すことはありうる。
 だから、それは誰にも解らない。むやみに判断を下してはならない。

__________OSHO

臨済録( Master of the Irrational )より抜粋

2004年5月


私達は眠りこけている
通常の意味ではなく、抽象的な意味で眠りこけている
私達は自分がいったい誰なのかを知らない
そんな私達をどうして目覚めていると言えよう?
私達は本質的なことについて何ひとつ知らないのに
ガラクタには精通している_____
月や太陽や地球のこと、また歴史や地理のことなら
どんなことでも知っている
だが自分自身のことは何ひとつ知らない
自分自身を知ることこそ
真の教育の根幹となるべきだ・・・・・

まず自分自身に、自分とは誰かに気づくことだ
それができるのは、あなたをおいて他にはいない

私はあなたを呼び出す
だが、あなたが出ようとしなければならない
暗闇から
何百年も続けられた古い習慣から
長い長い眠りから
そこから抜け出すために勇気を奮い起こすことだ

ひとたびあなたが目覚めたら
生はダンス、歌、至福、祝福となる

__________OSHO

夜眠る前に贈る言葉
(A must for contemplation before sleep)
month 5 −生との戯れ− No.20

4月写真


そこに要求がなくなったとき
愛は花開く
愛は、さまざまな要求が
消え失せたとき初めて花開く
愛というものは
王と女王の間でしか
起こらないものなのだ
どちらも要求など持っていない
愛は世の中で一番贅沢なものだ
それは要求ではない
最後の贅沢
贅沢の極みなのだ___


・・・もし誰かがその絵を見たら、畏怖を、尊敬を、静寂を感じるというような構想で描いてごらん。その絵を見ている人間に何が起こるかということが、アイディアの基本になるべきだ。もし、ただそれを見ているだけで、その人が少し瞑想的になったら、あなたは世の中にビューティフルな、何かとても創造的なものをつくり出したことになる。
絵画というのは大きな力がある。一枚の絵が、人々の中に性欲を起こすこともできる。ポルノグラフィーにあれほどの人気があるのはそのためだ。それは性的な幻想を与えてくれることができる。もし一枚の絵が性的な幻想を与えられるのだったら、どうして瞑想的なエクスタシーを与えられないことがある?それは可能だ。あなたは、人を瞑想的にする一定の色や形の組み合わせを考えなければならない。とにかく、それを頭に入れて仕事を続けていってごらん。じきに、いろいろな発見をすることができるだろう。
ちょうど人々を性的にする音楽があるように、人々をとてもスピリチャルにする音楽もある。あなたをとても低い処、動物本能まで引きずり降ろす音楽もあれば、空高く、今まで一度も知らなかったような高みへ、実存の新たな高所へ舞い上がらせてくれる音楽もある。ある一定の音の組み合わせだけで、全てが変わってくる。同じことは色や形を通しても可能だ。同じことは言葉、詩を通しても可能だ。同じことはダンスを通じても可能だ。踊り手は、それを見ている人達が突然高々と舞い上がるような踊り方をすることもできる。観客達は、いつものセックスセンターを離れて、より高いセンターへと上昇し始める。
これがグルジェフの言う客観芸術だ。____芸術がただの娯楽でも、装飾品でも、家の内装の一部でもなく、見る者の中に何かそれまで無かったようなものを創り出す_____。ただ、ある歌や特定の音楽に耳を傾けているだけで、特定の絵を見ているだけで、その人は前とは全く別人になってしまう。
だから、絵画というのは、ただの装飾品にもなり得るし、ただの娯楽や余興にもなり得る。一枚の絵は、ただの面白いものでもあり得るし、まるで写真のような、とても現実的なものでもあり得る。一枚の絵は、性的なエロチックなものでもあり得る。そして、一枚の絵は、スピリチュアルなものでもあり得るのだ。

__________OSHO

生命の歓喜 ( DANCE YOUR WAY TO GOD )より抜粋

2004年4月


蓮は泥から生じる___
もっとも美しい花は汚れた泥から生じる
このことは、汚れた泥であろうと
内側に何か美しいものを秘めていることを意味している
だから泥を拒絶してはならない
それは蓮を内に秘めている
人はこの誇り高く
これほどの色合いを持つ美しく優雅な花が
ありふれた泥から生じるとは
思いもよらないだろう
人間はありふれた泥として生まれるが
内側には蓮の花を秘めている____
まさにその種の状態において
人は拒絶されるべきものではない
人は受け入れられ、変容をとげる必要がある
この世界を否定する必要はない
それは限りなく美しい何かをはらんでいるのだから
それは表面にあるものではない
それは表面にまで浮上させる必要がある

だから私はどんなものにも抗わない
肉体にも世間にも、外界のものにも抗わない
私はすべてに抗うのではなく
すべてを変容させるためにここにいる
存在からの贈り物にはどんな物であろうと
何らかの価値がある
その価値を理解できないとすれば
それは私たちの落ち度であり、狭い視野のせいだ
蓮について心に留めておくべき二つめのことは____
それが水の中に生息しながらも
水に触れられることはないということだ
蓮はビロードのような花びらを持ち
たとえ露滴が花びらの上に溜まろうと
水滴ははじかれている

世の中に生きなさい
だが世間をあなたの中に浸透させてはならない
世の中に留まりなさい
だが世間の一部とはならないことだ
離れていなさい
クールであり、常に一定の距離をおくことだ
そうすれば、この世界は実に多くのことを教えてくれる
この世界は存在のあみだしたもの
成長し、成熟を遂げるための学びの場なのだ

__________OSHO

夜眠る前に贈る言葉
(A must for contemplation before sleep)
month 9 −踊りながら神のもとへ− No.24

3月写真


●179

LOVE 
瞑想はいかなる心(マインド)の傾注も努力も要しない
それは眠りのように労せずにしてあなたの上に降り立つ
眠ろうと頑張ることはできないし
瞑想しようと頑張ることもできない
反対に、あらゆる努力は
そのすみやかで静かな訪れを妨げる

そのなかに行為や攻撃性の入り込む余地はない
行為はつねに攻撃的なものだが
瞑想というのは受け身の感受性なのだ

心(マインド)は攻撃的
瞑想は受け身だ
受け身で
受容的で
オープンで
感じやすくありなさい
そして待つのだ
本当の奇跡は待つことを通して起こる
その待機がトータルになった瞬間
そこに生起(ハプニング)がある
そして爆発が____


●195

LOVE

姿勢が全てを決める

否定的な姿勢は生を否定する
それは死ぬにはいいが、生きるにはふさわしくない
生は肯定的な姿勢を必要とする
生はそれを糧としている
肯定的な姿勢は人を幸せにするばかりでなく
創造的にもするからだ

昔、ひとりの年老いた女の人がいた
ところが年をとればとるほど、彼女は若々しさを感じるようになった
というのも、若さは全く年齢とは関係ないからだ
若さとはひとつの姿勢であり
年をとるとともに心が豊かになってゆけば
人は本当に若者より若くなれるのだ
その老婦人は実にはつらつとし、創造的で
みんなの驚きの的だった

「でも、あなたの人生にも雲のかげりはあるでしょう」
ある訪問者が尋ねた
「雲ですか?」彼女は答えた
「もちろんですとも
 まるで雲がなかったら
 どこから祝福の雨が降ってこられます?」

トラブルがあると
____そして、生にトラブルはつきものだ
肯定的なマインドは翼を生やし
他の人達は松葉づえを買い込む

翼を生やして
松葉づえは買わないことだ

__________OSHO

A CUP OF TEA ( OSHO 初期書簡集 )より抜粋

2004年3月


ふたつの言葉を覚えておきなさい
ひとつは重力、もうひとつは恩寵だ
重力は地上の法則だ
それは物を下に引っぱる
恩寵は天の法則だ
それは物を上に引っぱる
科学は重力を発見し、宗教は恩寵を発見した

通常、私たちは重力の法則のもとに生まれて生きる
私たちの生涯は下り坂のようだ
誕生に始まり、死に終わる
生気に満ちたものとして始まり、屍として終わる
それは下降線をたどる

内側へと向かい始めないかぎり
第二の法則である恩寵は機能しない
肉体に同化したままだと、地上の法則が優勢になる
肉体は大地の一部だ
私たちが内側に進み始めるとき
_____それこそ瞑想のすべてなのだが
私たちは肉体の一部ではない何かに気づくようになる
それは肉体の中にあるが肉体ではない
肉体はただの寺院であり、人格ではない

ひとたびあなたが
肉体に住むその内なる神性に気づくようになると
第二の法則がすぐに機能し始める
あなたは上方に引き上げられる
生はひときわ豊かに、味わい深く
ますます限りなく、申し分のないものとなる
それは大空へと向かう
それは空のように広大になり始める
空でさえ制限があるほどにだ
だが、すべての秘密は瞑想にある

__________OSHO

夜眠る前に贈る言葉
(A must for contemplation before sleep)
month 11 −死んで再び生まれる− No.19

2月写真


・・現代の心理学は、いくつかの意義深い発見をしている。それは知的な発見でしかないが、それでも好ましいスタートにはなりうる。知識として発見されたことは、遅かれ早かれ、必ず実際にも体験されることになるからだ。
 フロイトは偉大なる先駆者だった。もちろん彼は覚者ではなかったが、極めて重要な人であったことは確かだ。彼は、人間の中には巨大な無意識の部分が潜んでいるのだという考えを人類の大部分に受け入れさせた最初の人だった。顕在意識(意識的な心)はたった十分の一だ。無意識の心は顕在意識の九倍もある。
 次に彼の弟子ユングが、それよりもう少し先、もう少し深くまで進んで、集合的無意識を発見した。個人的な無意識の背後には、集合的無意識がある。今や誰かが、さらにその先を発見しなければならない。その可能性はある・・・。遅かれ早かれ、鉄のカーテンの両側で続けられている心理学上の研究が、必ずそれを発見するだろう。それは宇宙的無意識だ。覚者達はそれについて語っている。
 だから私達はこう言うことができる。顕在意識(表面意識)というのは、ごく頼りないものであって、人の存在のほんの一部分でしかない、と。その意識の背後には、漠然とした潜在意識がある。ささやき声は聞こえるものの、それをはっきりと割り出すことはできない。が、それが常に意識の背後に控えていて、糸を操っている。第三は無意識の心だが、それに遭遇するのは夢の中か薬物(ドラッグ)をとったときだけだ。その次に集合的無意識がある。それに遭遇するには、無意識の心のごく深いところまで探究の手を伸ばさなければならない。それで初めて集合的無意識に遭遇することができる。さらにその先、さらに深くまで進んだなら、あなたは宇宙的無意識に到達する。
 宇宙的無意識は自然、本性だ。集合的無意識とは今日まで生きてきた人類の総体であり、あなたの一部でもある。無意識とはあなたの個人的な無意識であり、社会があなたの中に抑圧しているもの、表出が許されてこなかったものだ。夜の夢の中でそれが裏口から入ってくるのはそのためだ。そして顕在意識__私はそれをいわゆる意識的な心と呼ぶが、それは「いわゆる」でしかない。それはごくちっぽけな、揺らめき、ひらめきのようなものだ。単なる揺らぎでしかないが、やはりそれは重要だ。というのも、それは種子だからだ。種子は常にちっぽけだ。が、おおいなる潜在力を秘めている。

 いまや、全面的に新たな次元が開かれようとしている。フロイトが意識下の次元を開いたように、シュリ・オービロンドは、この時代におけるもっとも重要な人物だった。ふたりとも知識人であって目覚めた人ではなかった。が、どちらも人類に偉大な貢献をした。彼らが知識として私達に気づかせてくれたのは、人間は表面で見るほどには卑称な存在ではないということだ。その表面の背後には、偉大なる高みと深みが隠されている。
 フロイトは深みにおもむいたが、シュリ・オービロンドは高みに入りこもうとした。私達の顕在意識のすぐ上には、「真に意識的な心」がある。それは瞑想を通してしか達成できない。通常の顕在意識が瞑想と出会ったとき、通常の顕在意識に瞑想が加えられたとき、それは真に意識的な心となる。この「真に意識的な心」を超えたところに、超意識的な心がある。
 瞑想しているとき、あなたが得られるのは一瞥だけだ。瞑想とは暗闇での手探りだ。確かに、幾つかの窓が開くのだが、あなたは何度も何度も後退しなければならない。超意識的な心とはサマーディのことだ。あなたは水晶のように透明な洞察力を達成する。統合された気づきを達成する。もはやそれ以下に落ちることはできない。それは自分のものになっている。眠っているときですら、それはあなたとともにある。
 超意識を超えると、集合的な超意識がある。集合的超意識とは、諸宗教では「神々」として知られているものだ。この集合的超意識を超えたところに、神々すらも超える「宇宙的超意識」がある。ブッダはそれを涅槃・ニルヴァーナと呼んでいる。マハヴィーラはそれを「カイヴァリヤ」と呼び、ヒンドゥー教の神秘家達はそれを解脱・モクシャと呼ぶ。それは「真理」と呼んでもかまわない。

人の存在にはこの九つの段階があるのだが、あなたがたはそのごく狭い片隅、ちっぽけな表面意識の中にしか生きていない。自分は宮殿を持っているのに、その宮殿のことなどすっかり忘れて、ポーチ(玄関)で暮らし始めた人のようなものだ。彼はそれが全てだと思い込んでいる・・・。

 唯一学ばれるべきことは、注意深く見守ることだ。見守りなさい!みずからの為すあらゆる行為を見守るがいい。心の中を通りすぎてゆくすべての思考を見守るのだ。自分の心を占めるあらゆる欲望を見守るのだ。些細なしぐさすら見守りなさい。歩き、語り、食べ、風呂に入り・・・。すべてのものごとを見守り続ける。あらゆることを見守るための機会にしなさい。

 見守るとき、あなたには明晰さが生まれてくる。なぜ、注意深く見守ることから明晰さが生まれてくるのだろう?それは見守るようになればなるほど、ますます性急さがなくなってくるからだ。あなたはもっと優雅になる。見守るにつれ、おしゃべりな心も口数が少なくなってくる。雑談になっていたエネルギーの向きが変わり、注意深く見守ることになる。それは同じエネルギーだ!いまやさらに多くのエネルギーが見守ることに変容され、心へは滋養が与えられないようになる。思考はもっとまばらになり、その重みを失う。少しずつ徐々に、それは死にはじめる。そして、思考が死にはじめるのに伴い、明晰さが生まれてくる。いまやあなたの心は鏡になっている。

____ かれのなんと楽しげなことか!

 明晰なときには、人は至福に満ちている。惨めさの根本原因は乱心であり、至福に満ちた状態の基板になるのは明晰さだ。

____ かれのなんと楽しげなことか!
     それはかれが目覚めていることを生と見るからだ

 いまやかれは、死というものはないことを知っている。なぜなら、目覚めていることは決して破壊されないからだ。死がやってきたとき、あなたはそれも見守る。あなたは見守りながら死んでゆく。見守ることは死なない。肉体は消え失せて、灰塵に帰してしまうだろうが、注意深く見守ることは残る。それは宇宙的な全体の一部になる。宇宙的な意識となる。

__________OSHO

ダンマパダ・永遠の真理(THE DHAMMAPADA : THE WAY OF THE BUDDHA) より抜粋

2004年2月


あらゆる時代の
全ての師(マスター)たちはこう宣言している
人は皆、聖なる王者として生を受ける
にもかかわらず、その事実に全く気づかずにいると
自分自身の内側の世界を知らなければ
その王国に気づくことはない
そしてまた
永遠なる自らの王国を知らずにいるために
とるに足らぬことを望み
ちっぽけな物ばかりを乞い求めている

私達は自分が物乞いであるという悪夢を見ている
人は目覚めた瞬間
いいようのない驚きに包まれる
自分は物乞いではなく、王だったのだと気づいて

それこそが瞑想の目的の全てだ____
それはあなたに内側の王国を知らしめ
至上なる可能性に気づかせる

そしてひとたび目覚め始めれば
旅は困難なものではなくなる
ほんのかすかな目覚めでも
眠気はほとんど薄れ、物事は容易になる
だがあなたが目覚めぬかぎり
それが実体となることはなく
リアリティに至ることはない

__________OSHO

夜眠る前に贈る言葉
(A must for contemplation before sleep)
month 1 −意識のコロンブスであれ− No.24

1月写真


・・あらゆる子供はみな自然に、ゆったりと生まれる
ところが、そこに社会が入ってくる
ある一定の理由で入り込んで来なければならないのだ
それは何も悪いことじゃない
というのも
もし子供が彼のまま、あるいは彼女のままで放っておかれたら
その子は決して成長しないだろう
そして、その子は絶対に宗教的な人間にはなれない
彼はただ獣みたいになるだけだ

社会は入り込んで来なければならない
社会は通過されなければならない
それは必要なのだ
ただひとつ覚えておかれねばならないのは
社会というのは一度従われ
そして、次には超えられなければならないものだということだ
ルールは学ばれ
そして忘れられなくてはならない
人生にルールはつきものだ
世の中には他人というものがいるのだから
あなたは一人っきりじゃない

・・それには何も悪いところはない!
それは為されなければならないのだ
ただし、それは
その子が決して彼の覚醒を失わないように
彼がその教化パターンと一体になってしまわないように
内側の深いところでは自由のままでいるように
ルールには従わなければならないけれど
ルール自体は人生じゃないということが解るように
そして、それでもルールは教えられなくてはならないのだということが解るように
そんな形で為されなくてはならない
それは、<よき社会>というものが行うであろうことだ
それはこう教える
「こういうルールはいいものだ
 世の中には他人というものがいるんだから
 しかし、それは絶対じゃないし
 あなたはそれに閉じこめられている義務があるわけでもない
 ある日、あなたはそれをも超越しなければならないのだ」と

社会というのは
それがその成員に文明と
そして超越の両方を教える限りにおいて悪いものじゃない
そのときその社会は宗教的な社会だといえる
もしそれが全然超越を教えないとしたら
そのときは、その社会はただ単に俗な、政治的な社会でしかない
そこには宗教のかけらもない

あなたは、ある一定の範囲までは
他人の言うことに耳を傾けなくてはならない
そして、それから今度は自分自身に耳を傾けなくてはならない
最後には、初源の状態に還って来るべきなのだ

死ぬまでに
あなたはもう一度無垢な子供に戻るべきなのだ
ゆったりと自然な子供に_____
なぜならば
死において再び
あなたはひとりぼっちの次元に入って行くからだ
ちょうど胎内にいたときと同じように
死において
もう一度あなたはひとりぼっちの領域に入って行く
なんの社会もそこには存在しない
そして、一生涯のうちにあなたは
ただ目を閉じて社会を超えてしまうスペース
自分自身の中へ
自分自身の胎内へと入って行く幾つかのスペースを
砂漠の中のオアシスのような幾つかの瞬間を
見出さなくてはならない
これが瞑想の何たるかだ
社会はそこにある
が、あなたは目を閉じて社会を忘れ、一人になる
どんなルールもそこには存在しない
なんの人格もいらない
なんの道徳も
どんな言葉も
どんな言語もない
あなたは内側でゆったりと自然になることができる

そのゆったりとした自然さに向かって成長してゆきなさい
たとえもし外的な規律の必要があっても
内側では野生のままでいるのだ
もし人が、内側では野生のままでいながら
しかも社会の中で必要とされることは習い覚えることができたら
やがて彼は
すんなりと超越してしまえるあるポイントに行き着けるだろう・・

__________OSHO

存在の詩(TANTRA The Supreme Understanding) より抜粋

2004年1月


最新|2004年|2003年2002年