尾瀬の回想                                        

  若き日の 青木清孝 さんの尾瀬の回想です。 今年7月尾瀬遠征の参考にしてください。 

あこがれの尾瀬1

 昭和
436月中旬、私は念願の尾瀬へと旅立った。まるで初恋の人に逢うかの如く、心ときめかして・・・。
翌早朝には富士見下に到着、初めての旅、初めてのキスリング。
至仏山に登って、今日の宿の竜宮小屋で一息していると激しい夕立が来た。
アルバイトの娘に散歩してみないと誘われて、私と女子大生と何故か5名が東電小屋まで散歩をする事になる。一夕立の後の尾瀬ケ原は美しい夕映え・・・
誰かが「裸足になってみない」、「気持ちがいいわよ」と言う。小屋のサンダルを脱ぐと、ヒリヒリと頭の芯まで地の冷たさが伝わってきそう。突然、偏平足の幸子がなめくじを踏みつけた。なめくじの方がびっくりしたろうねと大爆笑。尾瀬には、湿原保護と登山客が歩きやすいようにと木道が縦横に走っている。
「池に至仏が浮かんでいるでしょう。白いベレー帽の至仏が燧ケ岳にお嫁に行ったの。もう少し早く来ると良かったわね、ここら一杯水芭蕉が咲いていたのよ。」と清江の説明。せまりくる夕闇が一層ムードを盛り上げる。若い歌声と躍動する足取り。ラッ、ラッ、ラ、ラ・・・。汚れを知らない東北の娘たちが羨ましくなる。
裸足のまま東電小屋まで行き、大広間を見学。帰り道は木道と湿原の区別がなかった。学生さんが足を滑らせたら膝まで潜った。会う人も稀な静かな一日であった。

 三日目、4時に目覚め、このまま床にいるのも惜しい。起きている人がいたので30分ほど尾瀬の事について、お話をする。その人は悩んだ末に、北海道から小屋の跡を継ぐべく、帰って来た長靖氏であった。下駄をつっかけて小屋の前に広がる大江湿原に向う。
黄金色の立金花、シナノキンバイ、純白の妖精・水芭蕉。尾瀬沼は朝霧に包まれ、朝の冷気に立ち尽したり、うずくまったり物思いに耽る。落日も素晴らしいが、朝の静けさはまた、格別。小鳥の声も清々しい。

“水芭蕉の花白々と咲きいでぬ 春日あかるき沼のほとりに”  平野 長英

燧ケ岳に登るべく、長英新道の原生林を歩いていると、何処から来たのか犬と後になり、先になり頂上が近いと判ると、先に駆け上がって私を心配そうに見下ろしている憎い奴。
至仏同様、一人で山頂に立った事のむなしさ。時間と共に賑わってくると犬に気がついて皆びっくり。「四つんばいでご苦労さん」「あら、私たちだって」。

裏燧は、コメツガ、シラタマの木など原生林に包まれ、その中心に熊沢田代がある。豊富な残雪と遅咲きの水芭蕉、その当時木道もなく、ズブッ、ズブッと沈むキャラバンシューズの感触、池塘と湿原植物の桃源郷。最後に尾瀬観光林道をストップさせ、「生涯に悔いはなかった」と尾瀬に逝った長蔵小屋三代目、長靖を悼む。
コース:富士見下→至仏山→竜宮小屋→三条の滝→長蔵小屋→燧ケ岳→御池→渋沢温泉小屋→銀山湖(3泊4日)
                     −好山好会報、昭和
47年12月号より−


あこがれの尾瀬2
尾瀬燧ガ岳・至仏山(1970年)

 5月29日快晴。前夜新幹線、急行佐渡と乗り継いで、沼田からバスで大清水に下車する。
寒いのと空が白みかけてくる気配なので、休憩もそこそこに出発(3:40)する。一ノ瀬休憩所の吊り橋を渡ると、やっと山道らしくなってくる。谷沿いの斜面に申し訳程度に残っていた雪も、三平峠(6:00)を越えると残雪も多くなってくる。近道を尾瀬沼山荘(6:20-7:30)に下り、朝食後長蔵小屋を廻って沼尻への道を左に見送って燧新道を登る。沼畔は花の最盛期にはまだ早いせいか、水芭蕉だけが雪の消えるのを待ちかねたかのように、白い姿を現している。アオモリトドマツの樹幹は1mほどの雪で埋まり、赤ペンキの目印を頼りに尾根に出て俎グラに着き昼食(12:50-13:50)にする。燧ガ岳の最高峰である柴安グラ(標高:2360)への登りは短い間ではあるが、急斜面の雪壁があり靴先を蹴り込んだ深いステップが刻まれ、その両側にはホールド代わりに指を差し込んだ穴が無数に開いている。柴安グラ(14:20)着。降路を見晴新道にとり雪の深い本筋を見晴(16:00)に下る。
どの小屋も平日のせいか閑散として、やはり女性客が大半を占めている。痛い足を引きずりながら竜宮小屋を横目に眺めて山の鼻小屋(18:00)に着き泊まる。(2食付1200円)

 5月30日快晴。山の鼻小屋(7:00)出発。雪解けのぬかるみ道を至仏山(標高:2228に登る。
山頂(
9:10-10:00)は鳩待峠からの登山者で混んでいる。鳩待峠まではバスの運行が中止され、タクシーとかマイクロバスを利用するとか。復路を山の鼻のキャンプ場に戻り昼食(11:40-12:45)後、昨日の道を見晴を廻って三条の滝を見に行く。見晴までの湿原はまだ草色一色の荒涼たる風景を展開し、水芭蕉だけが所々群落し、ザゼンソウは途中で
一花見ただけである。赤田代ではリュウキンカと水芭蕉が混在して群落し、そのコントラストが目を楽しませてくれる。三条の滝(15:50-16:10)は折からの雪解け水を集めて一条の白布となって石楠花の紅色の花越しに豪壮に落下している。復路は東電小屋を廻り、ヨッピの吊り橋を渡って竜宮小屋(18:00)に着き泊まる。

 5月31日快晴。竜宮小屋(6:40)出発。富士見下へのぬかるみ道は休日の事とて、登り下りの人でごった返して、六甲のロックガーデンを思い出す。富士見小屋(8:50-9:30)と休憩して富士見下(11:00)バス停到着。(好山好会会長、秋葉氏記)

尾瀬沼山荘で休憩してトイレを使用すると、当時としては珍しく水洗便所となっていた。大清水を早朝4時前から歩き出して、休憩も多いが燧ガ岳を下りきって竜宮小屋を過ぎ疲れきった足には、牛首から山の鼻までは長かった。流石の私も、小屋に荷物を下ろすと足がジンジンして遅れている人を迎えに行く気力は既に無かった。

後日判った事であるが、参加していた女性が燧ガ岳の下りで足を痛めて?膝に水が溜まったと聞いた。ハードスケジュールだったのかと反省もしてみる。

竜宮小屋では東電の小屋まで歩いたアルバイト店員と再会した。当夜は布団を敷くと敷き足りないので案内人である私は、押入れに布団を敷いて眠った。(青木)


あこがれの尾瀬3                                            三条の滝
 尾瀬晩夏  花の旅(1996年)

 このたび妻のリフレッシュ休暇に合わせて、8月下旬に尾瀬を旅した。尾瀬といえば6月の水芭蕉に始まって初夏のニッコウキスゲ、秋の草紅葉と入山者を魅了してきた。しかし、今回はニッコウキスゲも終わりの日程になってしまった。以下、お花を中心に感想を述べてみたい。

小出より銀山平〜御池まで車で入り、バスで沼山峠バス停まで15分位。日曜日に入山したので帰る人は結構多い。バスの車窓より樹海を見ていると道路脇の法面に野蕗がびっしりと生えていた。バスを降りてシラビソの林を抜けるとあっという間に沼山峠。5分も歩かない間に笹原にヤナギラン、サワギキョウが現れ直ぐに大江湿原の入口に到着。他にミズギボウシ、流れに沿って大型の白いシシウド、黄色のマルバダケブキが競うように咲いている。長蔵小屋3代のお墓があるヤナギランの丘は今が見頃と紫の花を咲かせている。

ヤナギランの丘を後にして木道に沿ってコオニユリが固まって咲いて、木道の先端は左側に長蔵小屋、右側に尾瀬沼が広がっている。沼山峠バス停からゆっくり写真を撮りながら歩いても1時間で到着。宿泊の受付を済ませ、浅湖湿原まで足を伸ばすとここからは、左手に尾瀬沼、右手に燧ガ岳が望める。僅かだがニッコウキスゲも咲いている。

翌日は、小屋の前の水場で喉を潤すと濃紺のトリカブトが目の前に迫ってくる。小1時間ほどかけて木道を散策しながらビジターセンターの学生説明を受ける。尾瀬沼を右に眺めながら沼尻休憩所を過ぎ、樹林帯の中で川の瀬音を聞きながら進むと見晴らし十字路。

小休止の後、尾瀬ケ原を進めば沼尻川のほとりの龍宮小屋に到着。荷物を預け、山の鼻まで尾瀬ケ原の散策。ここからは至るところ、池糖にヒツジグサが浮かんで正面に至仏山、背に燧ガ岳を眺望しながら進む。尾瀬ケ原では他に白いワタスゲ、食虫植物のモウセンゴケ、池糖の水面に呼応するかの様に揺れるワレモコウと色々とハイカーを楽しませてくれる。帰りにヨッピー川経由で龍宮小屋を目指すと原っぱ一杯ワレモコウが咲いている。

こんな所が尾瀬の尾瀬たる所以かも知れない。

龍宮小屋に宿泊して翌日、夜明け前に起床して前の湿原を散策しようと思っていたら雨が降っていた。龍宮小屋より続く木道の両側は、サワギキョウが咲き1分も歩けば池糖があり、色づきかけたヒツジグサが浮かんで至仏山が雨に煙っている。3日目は生憎の雨。沼尻川沿いに東電小屋〜平滑の滝、三条の滝経由、山上の楽園「横田代」「上田代」を巡る。

神のみぞが創れる壮大な庭園である。ここには紫色のミズギボウシに混じってポツポツとかなりの白色のミズギボウシが見られた。少し歩けば、直ぐに車が置いてある御池の大駐車場だ。

あこがれの尾瀬(U)

 教室で偶々観た尾瀬の18ミリ映画?高校一年生からの夢、尾瀬旅行が遂に叶う事になる。

大阪より新幹線で東京経由沼田下車して、バスに乗り換え富士見下へ。

一日目(富士見下〜鳩待峠〜至仏山〜山の鼻〜竜宮小屋)沼田駅の待合室で一人の女性に声をかける。
最初50人ほどであった登山者が、次の普通電車が到着すると総勢200人ほどとなり、駅の広場が人で埋まる。
大清水から尾瀬沼方面は沢山の人が押し寄せていたが、富士見下行きのバスは30人位だ。バスの中でお互いに計画書を見せ合う。2時間の車中、眠ろうと思ったが一睡も出来なかった。バスが走り出した頃に降っていた雨も下車をする頃には止んでいた。

4時前、富士見下着。バスを降りるとぶるっと震える。彼女はセーターを着込む。未だ明けきらぬ中を小鳥はさえずり、霧は流れていく。初めてのキスリングは肩にくい込み、苦しい歩行となる。軽装ハイカーの多い中、私のザックにも劣らないザックの彼女と富士見小屋まで同行して尾瀬沼へ至仏へと、それぞれのコースに向って歩き出す。

 何時の間にか雨が降り出していた中を、ひっそりとした尾瀬の道を歩き始める。傘を差しザックを背負ったまま木道に座って休憩をしていると、睡魔で何時の間にかうとうとしていたが人の近づく気配に歩き出す。しばらく歩くと木道も無くなり、道は泥濘状態。ズボンはどうしようも無いほどに汚れ、泥濘に足を取られる事、暫し。それでも行き交う人との挨拶は「こんにちは」と声も弾む。鳩待峠休憩の後、雨の中をワル沢の頭へ向って苦しい行進。真紅のツツジに勇気づけられ登りを終える頃には雨も上る。
残雪の中を、石楠花の花、傾斜湿原と周りの景色が素晴らしく感動する。が、酷いガスだ。山頂が判らないと引き返す二人連れに出会う。そんな中、植物を盗掘する老人がいて注意をする。

小至仏はハイマツと石楠花、高山植物が咲き乱れる別天地だった。雪渓も豊かで山膚を流れるガスに見通しが悪い。私も二人同様、はたと迷った。山頂が判らない、尾瀬ガ原へ下る道が無いと。やっと探し出した山頂は展望も無く、弁当を食べただけで下山をする。
赤土で覆われた道は石がごろごろと、用心深く進まないと滑って転びそうだ。歩く事に精一杯になっていたら、原のガスが晴れてさながら早苗田のような池塘を望む事が出来た。

菖蒲平から一直に下る緑の山並が雨に洗われて美しい。水芭蕉の時期が遅かったならと思いながら、緑のカーペットの中に点在するワタスゲや色んな花を眺めながら竜宮小屋へ到着。小屋へ着いて寛いでいると、凄い夕立が来た。カンテラの下で絵葉書を書いていると散歩のお誘いがかかる[あこがれの尾瀬]参照当小屋、お客5名。夕食後は小屋の主人がお話しませんかと、話に聞き入る。これも土、日曜日を避けた宿泊客が少ない特典?カンテラの下で幸福な眠りに就く。

二日目(竜宮小屋〜東電小屋〜三条の滝〜下田代十字路〜沼尻〜長蔵小屋)竜宮小屋の前に立ってみると、尾瀬ガ原の山の鼻まで一望の下、一面靄だった。原には燦燦と朝日が射し、行く人はまだまばらだが、また「こんにちは」と楽しい合言葉が聞こえてきそうだ。
この小屋の近くには水流が一度泥炭層の下に潜り、再び下流の地上に湧き出すカルスト現象が見られる。池塘にできた浮島、科学的に貴重な現象とか。昨日一緒に東電の小屋まで歩いた女子大生が彼と、燧ケ岳をスケッチしていた。晴れつつある原をのんびりと彷徨い、素晴らしい景色に浮かれて歩く。
 昨日の夕方、裸足で渡った吊り橋を過ぎ、東電小屋横を流れる只見川源流「あれ! 何処にこんな大きな流れがあるのか」」と思うほど急に流れが大きくなる。

 赤沢田代を過ぎ、温泉小屋へ。気象観測中だったので尋ねると、今朝の最低気温:0.5湿度:92%という事であった。湿度の高さ等は尾瀬の地形、特徴を如実に現している。
小屋にザックを預け、三条の滝を見学。尾瀬ガ原の水を集めてゴウゴウと轟かせる音に、コースを外れ木の幹を、岩を頼りに流れる様に目を瞠ると40-50mの川幅一杯に全長:300mといわれる一枚岩を、流れ下る平滑の滝は圧巻である。その下流、約90mの落差の三条の滝の大飛瀑。三条の滝では、人のいない事を幸いに展望台の「立ち入り禁止」の札を無視して滝下まで降りる。滝飛沫で衣服が濡れ、近づく事が出来ない。着いたばかりのハイカーが「あれ! 雪、雪」と騒いでいた。雪が残っているのだ。
下田代の湿原を楽しみながら、ゆっくりと歩く。十字路小屋群の中から、ブナの生い茂った道を尾瀬沼へ。土、日曜日をはずしているので本当に静かな山行だ。後少しで沼尻というところで、泥濘にはまってしまった。周りの景色に見惚れていたようだ。右足をとられ、ついで左足を木道を挟む格好で踝まで泥濘の中へ。休憩所の船着場で水面に足を投げ出して洗う。そして、靴も靴下も脱いで水道で洗う。

 休憩所の人に「まだ早いから、燧ケ岳へ登ってきたら」と勧められる。老女曰く「尾瀬ガ原の伝説と言えば尾瀬大納言だな、尾瀬大納言・・・名前は何と言ったかな、その人が落人になってきて尾瀬ガ原の大堀平の上に城だか、小屋だか作って住んでいた・・・・。」東北訛りが露骨に、新鮮に聞こえる。この沼尻休憩所の位置は、平野長蔵氏が尾瀬で一番最初に小屋を建てた事で知られる。
沼を巡っていると、遠くを船影が走って行く。(このときには未だ、船の運行が許可されていた)長蔵小屋は尾瀬一の賑わいだ。至仏山でガスにまかれた青年と沼を散策。黄金色の立金花どっしりと夕闇迫る燧ケ岳。さざ波に水芭蕉の影が落ちて、夕暮れの尾瀬沼は美しい。
バスで一緒だった彼女に小屋で出逢う。部屋も単独行の人ばかりで同室になる。尾瀬は30年ぶり(戦前)と言う老人に、「それは懐かしいです」長蔵小屋2代目の夫人が「昔話をしましょう」との幸運が舞い込む。                

あこがれの尾瀬(U)続き  写真は1974.6 今から32年前のものです。(青木)

 三日目(長蔵小屋〜燧ケ岳〜御池〜渋沢温泉小屋)

 4時に目を覚ます。このまま寝ているのも惜しいと下駄を突っかけて小屋の前に拡がる大江湿原に向う。花々が咲く原の川に沿って釣人の踏跡が霧で濡れた草の中へと続いていた。四囲は朝靄に包まれ、朝の冷気に立尽くしていると小鳥の声も清々しい。小高い丘に尾瀬の開拓者、平野長蔵氏の墓が建っていた。
小屋へ帰り掃除中の人にあれこれ質問する。ゴミの処理法、木道の敷設(木道からコンクリート道への移行が当時考えられていた。)保護のブレーキの対立(福島県:群馬県、国立公園特別保護区と文部省)、そして観光地化して行く尾瀬の最大の不安要素は、銀山湖から大清水へ抜ける「尾瀬、只見国際観光ルート予定線」の計画案だ。尾瀬の今後に、私の質問に答えてくれる彼にも自ずと力が入る。彼とは長蔵小屋主人の息子の長靖氏であった。(「あこがれの尾瀬」で訂正です。早朝の沼への散策のあとに、長靖氏と遭遇)

 小屋をあとに燧ケ岳へ、天気は非常に良い。女性グループを追い抜いたら、何処からついて来たのか犬が私の後を追うようになった。私も一人、犬と後になり先になりして登る。尾根取付点に立つと残雪がかなりあり、草の芽、木の芽は浅緑色でやっと春が訪れたような気配だ。登りが急になってくると、犬が駆け上がって私を心配そうに見下ろしている。

 燧ケ岳山頂も一人であった。御池側からガスが湧き上がって山頂を越えては消えていく。谷川岳、仙ノ倉山の三国連峰を微かに望む事が出来た。俎ーから双耳峰の柴安ー(東北地方の最高峰2360m)へ。しばらくすると賑わって来て、至仏では早々に下山したが下るのが勿体無くて雪渓でグリセードなどして遊び、3時間近く山頂に留まる。話し込んでいたら、御池へ下りたいと言う女性連れがいたが下り始めて、雪の多さとガスで視界悪く、山慣れていない人には無理でしょうと、直ぐに断る。また一人旅だ。御池への裏燧の湿原、広沢田代は木道もなく、降り出した雨に傘を差してイワカガミ等の咲く湿原を、こんな所を歩いていいのかしらと・・・「皆、ごめんね、ごめんね」とズブッ、ズブッと沈むキャラバンシューズの歩を進めて行く。小さいながらもここの水芭蕉は見頃だった。

 「桧枝岐では丸屋に泊りました・・・。駒ケ岳、池の平には雪が残っています。幾つかの池塘を縫いゆるい起伏を越えて行くうちに堪らなく淋しくなってしまいました。そうして最後の大池に立ったときには思わず涙がぼろぼろこぼれました。音もなく寄せる小波に一層淋しさをかき立てられたのか、静まる四囲の山々に圧倒されたのか・・・」21歳の単独女性(思い出の山より)。

しかし、私は降り出した雨に先を急ぐばかりでした。

 御池で雨は止んだ。美しい横田代、西田代を過ぎ、ナップザック一つしか持たない20人ばかりの観光客とすれ違う。「尾瀬に来るんだったら泥んこになって歩いてごらん」と、何故か気分を害していた。天神田代からの落ち葉道と幽玄なブナ林に、紅葉の秋を想う。

  4日目(渋沢温泉小屋〜小沢平〜平ケ岳登山口〜銀山湖渡船場)

小屋で釣竿を借りて、小屋の横を流れる只見河川へイワナ釣りに行った。餌は川虫だ。
7時過ぎより、草を分け枝を潜って2時間かけてやっと4匹釣る。帰りは陽も高くなって一匹も釣れなかった。
小屋をあとに、こんもりとした中にも明るい林の中を歩いていると春蝉の声がうるさい。
尾瀬口山荘より、車道となり開拓部落の続く小沢平を過ぎると、鷹の巣はこの辺で一番大きな部落で、何処に行くにも峠を越えねばならず冬になると全く下界から遮断されて半年近くは、深い雪の中で過ごさなければならない。見下ろす川遠く、耕地の中を長閑に歩く学童の姿が見えて、分校時代を思い出す。開拓部落の続く道をてくてくと3時間弱歩いたのに後年、一緒に行った女性たちはいとも簡単に、軽トラを止めて乗せてもらい楽をした。

 尾瀬口渡船場の船の客は私と、夏に70名あまりで登山をする為に下見調査に来たという名大生の4名のみ。湯之谷村経営の船で奥只見へ寄航。ここで船を乗り換えて銀山平へ。
何処までも青い湖水、エンジンの音を立てて涼風が頬を撫でる。落ち込んでいる沢に白く残雪が見える。船の背に見え隠れする山は、平ケ岳だと言う。奥利根の秘境、平ケ岳。
 銀山口はその昔(約300年前)、銀の採鉱の為に栄えた銀山平のあとを経て尾瀬入りした事からこの名が残っていて、昭和36年湖底深く沈んでしまった。

 上野駅についてびっくりした。尾瀬へ向う人々が行列をなして待っているのだ。乗客の八〜九割が登山者とみられ、日曜日には一万五千人の人が尾瀬を訪れるという話も嘘ではない現実がある。

「木道は人の列で埋まり、美しい花にあこがれたのか、人を見に来たのか解らない」。小屋では収容能力の2倍以上の人が宿を求め、「相部屋はいや、お金を出すから一つの部屋にして」、「枕がないよ」、「蒲団!、蒲団!」とまるで蜂の巣をつついたような騒ぎだと、竜宮小屋の従業員から聞いた話である。

 これでは尾瀬の素晴らしい自然環境を守る事は出来ないであろう。「ゴミは捨てっぱなし」「花は摘み取る」という。「ミツバチは花を汚さずして蜜を取る」山を汚さず・・・。
これからが凄い。山梨の文通友達に会いに長野行き最終夜行に乗る為に、1時間前に新宿駅に到着したが、座席も通路も登山客で埋まって座る場所も無い。今日は土曜日、小淵沢で下車するという女性グループと仲良くなる。「塩山駅下車、大菩薩峠」の登山客が大半で、その後は楽になる。