コールマン山絵日記

 5月2日から4日に日程で岳工作氏と尾瀬に山スキーに行ってきました。


5月2日 −快適な至仏山での山スキー―
 都内某所、都心の高層ビル群がベランダ越しの闇に浮かび上がる岳氏マンションの一室、「食料は?他に持って行くものは?懸念事項は?」
など前夜の最終チェック。私は前泊で上京し岳氏宅に泊まり、翌日の尾瀬出発に備えたのであった。
 朝、6時40分東京より上毛高原行きの新幹線に乗り込む、どうも天気予報と異なり雲が厚い、単なる朝曇だろうと思っていたが、
晴れるところか、上毛高原駅に着いたら小雨が舞っているようであった。そこから鳩待峠バス連絡所行きのバスに乗り、そこからさらに乗り合い
の小型バスで鳩待峠へと向かった。天気は相変わらず芳しくなく、気分的に重くかつ睡眠不足もあり、バス車中は寝ていた。
10時45分鳩待峠着。「ぎょうさん人、来とるな」。まずその多さにお互い驚く。その割りにスキー板のパーティが少ないのが気がかりではあった。
昼食後、12時至仏に向かってシール登高を開始した。山スキー初めての山ではあったが、ステップが多くかつマークも頻繁にあったので、
その点は不安なく進む。「至仏の山頂は最高の天気ですよ。」下山のパーティは異口同音に、、、。その言葉どおり樹林帯を抜けるころ、
ガスが薄くなり、時折青空も見え始め、我々の行く手にピークもハッキリと見え、それを目指ししっかりとシールを効かせて行った。
残念ながらそのピークは小至仏で、この斜面をトラバースして、かなたに本当の山頂が見えた頃が一番の頑張りどころであった。
気がつけば天気は最高、ガスは足下に、目を転じれば燧の偉容が見て取れた。
 14時30分、山頂に到着。平ヶ岳、男体山、会津駒、燧の山々の眺望を楽しみ、シールを外し、鳩待峠へと滑降を開始した。
今冬、ゲレンデでも滑ってないので感覚が戻るか心配であったが、斜面も適度で、登り返しもほとんどなく非常に快適なコースであった。
16時20分鳩待峠に帰着。ここでザックを背負いなおし山ノ鼻小屋に向かって滑って降りていった。暮色が濃い17時であった。
ここから雪融けが進んでいるようで木道が露出しており、板での滑走が困難な場所が多いのには閉口した。木道の上を
板でペタペタ歩く、もしくは高巻の連続で、さすがにお互いに疲労の色も濃くなってきた。そろそろヘッドランプも用意しようか?と思ったころ
18時35分に小屋に到着。遅くなったのでさっそくチェックイン「板は乾燥室に置き、風呂に入って食事してください」「えっ!」
「先に風呂に入って食事してください」。何と風呂のある山小屋、一瞬わが耳を疑ったのであった。
 食事を済ませればいつもは飲みモードであるが、さすがにこの日は疲れたのか、岳氏の用意してくれた赤ワインを飲むと、目がトロンと
なりそのまま沈没してしまった。


5月3日  −スキー板での歩行を断念ー
 朝目が覚めると、昨日と打って変わって晴れ渡るいい天気。尾瀬ヶ原が白く輝きまぶしい。
朝食を済ませ、板を装着。ヒールフリーにして歩きやすく、またある程度滑りながら歩けるようシールは外しておいた。8時20分出発し。
尾瀬ヶ原を横切り尾瀬沼方面を目指した。背中には昨日の至仏山、進む方向には燧、足元からは白く輝く平原、上空は真っ青、  
岳氏と私はその別世界の人となっていた。
 順調な歩行も牛首あたりまでで、このあたりより雪解け箇所が多くなり、図らずも木道の上を板でペタペタ歩くのが増えてきた。 
「おい、板担いで山靴で歩いたほうが速いで」と岳氏、さっそくザックにくくりつけて歩き始める。私はそのままスキーで歩行。
結果は板をデポした岳氏が圧倒的に速く、とうとう私も竜宮小屋での休憩時に板をデポすることとした。
2人とも以降の行程で板を再び使うことはなかった。 
 12時45分下田代十字路に到着しやや遅めの昼食。さすがに通常の荷物に加えて、スキー板と靴は堪えた。「昼食はできたら
重いものから食べてください」と半ば懇願するように、夜食ツマミ用として用意した缶詰を食べ、メインディッシュのスパデッティを 
食した。昼食後、尾瀬沼目指して再び重荷を負っての歩行が続いた。先行のステップを確認しつつ、、、、。
「おい!これ燧向かってるで!」前を行く岳氏立ち止まる。地図と地形を確認。どうも燧に向かうステップについて来たようだった。 
しばらくして燧から下山者と出会い、それを確認し、なんとかリカバリーを果たし尾瀬沼方向へと向かった。 
 ようやく夕暮れの17時尾瀬沼湖畔に到着。湖畔には70近いご老人3名が休憩をとっていた。「沼に来るつもりが間違って
燧に途中まで登ってしまたんです。」と老人の一人が、どうも我々と同じだったようである。チョコなどほおばり少し元気をつけて
沼を周回し、18時45分に長蔵小屋に到着。先のご老人と共に小屋に着いたが、小屋から大勢の人がその老人を出迎え 
口々に「会長!お疲れ様」
 我々はさっそく風呂に入り、食事をすませた。同部屋の他パーティはすでに寝ているため、喫煙場に酒を持ち込みささやかに 
水割りで宴会を始めた。「尾瀬の水で割る酒は尾瀬割りというのです。」と、先の老人がいつの間にやら喫煙室でタバコをくゆらせて
いた。それをきっかけに話が進み、このご老人「尾瀬之会」の会長さんで、通算700回も尾瀬に来られていること、 
尾瀬環境の保護に尽力されていること、そして朝日新聞にコラムで掲載された「尾瀬割り」の命名者であることなど、感心しつつ 
尾瀬についての薀蓄は尽きることなく続いた。
 「え!あんたらも関西から来たの!」と、会長御大が引き上げたと入れ替わりに、関西弁のおばちゃんが私と岳氏の話に加わり
にぎやかにしゃべり始めた。「もっと声落とさんと、怒られますよ」と岳氏が言ったすぐ後で、喫煙室隣の住人より案の定お叱りを受け
てしまった。おばちゃんが引き上げた後も、岳氏と小声で尾瀬割りの酒盛りは続いた。


5月4日  −雨の大清水へー
 外から激しい雨音が、寝覚めの耳に入ってきた。雨と二日酔いで気分が優れないまま朝食を摂る。9時10分大清水に向けて
帰路に立った。幸いにして雨は小降りになっていた。長蔵小屋から沼を周回し、三平下まで向かった。三平下から三平峠までは  
最後の登り、思った以上に急で息を切らせながらやっとのことで峠へ、10時5分。ここで休憩していると軽装の若者2人が大清水
方面よりやってきた。もう下界は近いという安堵感と、我々の重装備とのギャップに複雑な思い。 
 ここからの下り道、足元は木道で出来たスノーブリッジ、頭の上にせり出た枝と担いだ板が引っかかるため両方に神経を使わねば 
ならず、先の安堵感はまったく裏切られる下り道の連続。岳氏も私も幾度と無くスノーブリッジを踏み抜いてしまった。
しばらくして、ベンチの休憩場があり会長御大が寛いでいた。「この先にある岩清水は尾瀬一の水です。」、重いのを覚悟でポリタンや
酒を入れていた容器に水を満々と入れ、持って帰ることとした。
 12時に一ノ瀬休憩場に到着。ここからは雪は全く無く、歩く人々も観光モードのいでたち。板を担いだ姿が彼らにはやや奇異に
映るような雰囲気でった。雨が再び降り始めやや激しくなったころ12時45分大清水に到着。大勢の観光客と観光バスが来ていた。
岳氏と私は、バス停の軒下で昼食のインスタントラーメンを食し、コーヒーを流し込み、ようやくひと心地付いた。 

 
 都内某所都心の高層ビル群が闇に浮かぶラウンジで水割りを傾け、「夏は、熊野古道どうや」「次回の冬こそテレマーク本格化や」と
心ははすでに次なる構想へ。普段は眠らぬ大都会の夜もGWは静かに更けていくようだった。
 

至仏山頂付近のシール登高
至仏山山頂
尾瀬ヶ原からの燧ヶ岳
大清水で寛ぐ岳氏