コールマン山絵日記

 8月12日から15日に岳工作、小原庄助、私と久々3人そろって、東北の朝日連峰に行ってきました。


8.12 −初日より沈ー
 早朝、都内の空はどんよりと雲っていた。私と小原氏は前日より上京し、岳氏のマンションから見える都心は
今にも降り出しそうな天気であった。
 帰省のため早朝にもかかわらず混んでる「つばさ号」で山形へ、そして在来線に乗り換え10時過ぎに曇天の
左沢駅に到着した。さて、今日の予定ではここからタクシーで朝日鉱泉まで行き、そこから登山を開始しし、
鳥原小屋で1泊。そのため駅前のスーパーで今日の昼飯を買い込み、駅近くの「大沼タクシー」に乗車。
「お客さん、朝日登るとはホント山好きだね」「後ろの人がボッカしてくれるんで、楽しみです」と助手席の岳氏。
「とか言って山で一番元気なのが岳さんでっせ」と、いつもの応酬で車内が盛り上がったのもつかの間、大粒の
雨がフロントガラスを激しく叩いた。「お客さん、この雨だったら、登るの明日にしたら」「でも明日には大朝日に
行きたいし、、、」と思案しつつ車中で地図広げ臨時対策会議。「おい、古寺鉱泉の方が近いで!これやった
ら、今日は沈して明日いけるで!」急遽古寺鉱泉に行き先を変更して貰った。沈と決まれば、それはそれで
気は楽になるもの、運転手さんの語る上杉鷹山にまつわる話を楽しみながら、12時に古寺鉱泉に着いた。
 古寺鉱泉は建物は古風でひなびたたたずまい、さっそく部屋に案内されスーパーで買った弁当を食べる。
昼食が済むとさすがに手持ち無沙汰、そのせいか時折雨脚が弱くなると。「これやったら山いけるで!」、
「いや!また強く降ってきましたよ」などど、交互に空を眺めながら、夕刻までの長い時間を過ごしたのであった。
 余談であるが、「鉱泉」と「温泉」の違いは、ここのオヤジに聞くと、温度20度を境に呼び名が変わるとのこと。
ここも適温に温めて湯船に送っている。湯の色は赤茶けて丁度有馬温泉の「金泉」のようであった。夕方風呂
から上がり、アサヒスーパードライ(やっぱり朝日連峰だけにアサヒが置いてあった)で喉を潤し、明日の天気は
ビール同様スーパードライであることを願い乾杯し、早々に床に就いたのであった。


8.13  −曇天の中大朝日小屋へー
 朝起きると、雨は上がっていた。依然雲が空を覆っていたが心なしか薄く感じられた。朝食のにんにくたっぷり
餅入りラーメンを食べ、大朝日目指して出発した。6時45分、気温は19度であった。
 古寺鉱泉からのルートは古寺山、小朝日の2峰を越えて、大朝日に至るルートである。ことに古寺山の登り
と小朝日のピーク直下の登りがきつく、気温以上に湿度の影響で、汗が滴りおちつつあえぎながら歩を進めた。
途中、2回の休憩を挟み、11時05分に小朝日に到着し、パンと蜂蜜、缶詰の昼食を摂った。ここは鳥原から
の登山道も来ているせいか、ここではいくつかのパーティが休憩に次々やって来て言葉を交わした。「お三人は
どちらから?」「ええ東名阪とバラバラですねん。」そのほとんどがこの枕詞で会話が始まるのであった。その中の
あるおばさんは、枕詞に対し「大阪のどっから? 私は八尾の山本、河内の芦屋やねん!」と。会って5分と経って
ない人間に聞いたこと無いギャグをかまして下っていった。「やっぱ。関西のおばちゃんやのー」そんなこんなで、
50分近く時間を過ごし、いよいよ大朝日を目指して11時55分出発。いきなり急な下り坂。「せっかく登ったのに、
下るのかよー!」背後の小原庄助氏。20分近くも下り、そして大朝日に向けての登りが始まった。「まず、銀玉水
までがんばろう。そこで1本しよう」と岳氏。その銀玉水までの道のりが長かった。13時銀玉水到着。ここは水場
として整備されており、かつ水量も豊富。「おい!手が痛いほど冷たいぞ!」先に水の恩恵を受けた小原庄助氏の
歓声。私も頭から水をかぶり生き返った心地。岳氏はパインの缶詰を冷やしていた。めいめいこの清水で生き返った
のであった。気がつくと1時間もここで寛いでいた。そして14時35分に大朝日小屋に到着。小屋は2階建ての堅牢
な小屋で、なによりも80歳のオヤジが小屋を守っているのには驚いた。我々が到着したころにはすでに小屋は濃い
霧の中。「山頂での夕日はあきらめて。明日の御来光に期待しようや」と岳氏の発案で、この日は山頂に行くことなく、
明日の天気を期待して、19時半消灯で三人はまだ眠れない体をシュラフに横たえたのであった。


8.14  −激しい風雨の縦走路ー
 御来光に合わせて4時半に起床したまでは良かったが、生憎外は濃い霧。御来光は断念し、ともかく朝食を
摂ってからということにした。朝食後空荷で大朝日山頂へ、小屋から約15分で山頂。条件がよければ佐渡ま
で見渡せるこの眺望も、視界約10メーターの濃い霧に阻まれたのであった。
 そしてこの日の目標の以東岳目指して6時10分出発したのであった。途中金玉水で水の補給をしていると、突然
大粒の雨がシャワーのように襲ってくるではないか。あわてて雨具に身を包んだが、この一事ですでに進む気力
が減退してしまっていた。「このまま引き下がるもの癪だし、、、気持ち的には完全に萎えてしまったし、、、」
悩んでいる間にも雨脚はいよいよ激しさを増していった。「よし!竜門の分岐まで行って、日暮沢へ下ろう!」
せめて少しでも縦走の実績を作りつつ、早急に下山する苦肉の選択であった。この間約10分、私にはとてつ
もなく長く感じられた。
 風雨の中、7時55分西朝日岳を経由し、9時10分に竜門の分岐に到着。さて縦走路ともここでお別れと
ばかりに、風雨をしのいでしばし休憩。 と、竜門小屋方面から1人と登山者が、「今から日暮沢に下山します
がそこからタクシー呼べますか?」「日暮沢小屋は無人で呼べないですよ。それなら竜門小屋で呼べばいいです。」
「おい!聞いといて良かったな?知らんと下山したら、さらに2時間は歩くことやったで!」それで、とりあえず竜門小屋
へと向かった。その登山者の話では寒江山のお花畑が美しいとのこと。「竜門で1泊して、今日は空荷で寒江山
ピストンして、明日日暮沢から帰ろうや!」ということで急遽、竜門小屋でザックを降ろすこととなった。 
 寒江山のピストンは岳氏と私の二人で向かった。「どちらまで行くのですか?」「ええ寒江山まで観光に」と岳氏
さすがに、天候悪く、疲れていてもシャレの方は快調であった。寒江山へは空荷のせいか、思ったより早く到着。
ガスで周りはほとんどわからないが、だだっ広いピークが印象的であった。復路は、霧に包まれたお花畑を岳氏は
丹念にフィルムへと収めていっていた。
 夕刻15時小屋に戻ってみると、何時の間にやら大勢の登山者でひしめいていた。隣の老夫婦の旦那と 
スペース確保でやや気まずい雰囲気、それほどまでに大勢の登山者がどんどん小屋に入ってきた。
 さて暗くな前に夕食ということで早めに準備。階下の1階では、山小屋のオヤジ囲んでの宴会が最高潮。
焼肉などおよそ山ではかぐことの稀な匂いが階段伝って、2階にも上がってきていた。一方くだんの老夫婦、
フリーズドライや即席物使わず、奥さんが黙々と素材から料理。「昔の山はみんなこんなんやったデ!」と、岳氏。
私もフリーズドライのカレーをかき回せつつ、横目で感心して見ていた。方や旦那はシュラフの中。 
その奥さん、後で我々にトンしゃぶを差し出してくれた。先の気まずい雰囲気に対する返礼か?旨かった!
その料理と気配りに、ただただ感謝するのみであった。
 夕食後は、窓の外の暮行く景色を肴に、即席スタンドバー状態でチビチビ。時折霧が切れた瞬間、この山
の雄大さの片鱗が顔を覗かせていた。


8.15  −ドロドロ、ぐじゅぐじゅー
 とうとう下山予定日まで雨であった。しかも昨日以上に激しい風雨。「こんなんで行けるんかいな。今日は沈か?」
日暮沢のタクシーは11時でこの小屋より無線で、予約をすでに入れてあった。私は風雨がマシにまるまで待てば?
と思っていたが、マシになる保障はどこにもない。一方、1階では山小屋オヤジ囲んで、早朝からすでに宴会モード
朝から餃子焼いているようだ。「風雨がきついのは竜門の分岐までです。その15分のガマンですよ。」とオヤジさらに
その車座の一角から「天気悪いほうが休憩短くなるので早く着くものです。」 ったく、人のことやと思って、、、。
 ともかくその15分ガマンしよう、ということで、3人は暴風雨の中の人となっていた。出発6時25分。
ともかく雨と風に翻弄されながら、15分後の竜門分岐。そこからはオヤジの言うとおり、幾分風はマシし、代わりに
登山道は沢状態、靴はすでにぐじゅぐじゅ。足の疲労が蓄積し、踏ん張りが利かなくなると、スリップ転倒しドロドロ。
「いいかげん下りは御免だ!登りがあるとホッとする」この長い下りに、小原庄助氏もさすがにうんざり。
8時45分にゴロビツ水場。しばし休憩するも疲労がとれない。しかもここからさらに急な下り坂。これでもかこれでもか
と下り道は延々と続いていた。そして水場から1時間15分後、やっと日暮沢。全員、泥と雨と汗まみれの帰還であった。
 
 11時に時間通りタクシーが到着。岳氏の交渉おかげで、途中大井沢温泉経由で寒河江駅までタクシーを利用。
帰りの「つばさ」も帰省の戻りラッシュが始まっていたが、山形始発で座って東京まで帰れることとなった。
車窓の景色も福島までは雨模様。どうも東北全般に天気良くなかったようだ。「ワシら東北に嫌われとるで」3年前の
月山、鳥海山も同様の天気であった。「昨年は熊野で天気良すぎてバテましたし、上手くいきませんね」
「ところで、ホンマに今日名古屋かえるんか。これ待ってるんか?」と。小指を突きたて、首を小原氏に向けて岳氏。
「早く帰って洗濯片付けしただけですよ。」「それやったら明日早く帰りましょうよ、今夜は都内で反省会しましょう」と
私も加勢。 その約4時間後、我々3人は寿司に舌鼓を打っていたのであった。外はもう夜の帳、夏の終わりを
告げるかのような雷鳴とにわか雨。竜門小屋の宴会もこの時間まで延々やっていたのだろうか?

8.16  
 11時ごろ名古屋駅で先に降りた小原氏を車窓から見送り、しばし「のぞみ」車中でうとうと。京都手前でふっと
ドア上のテロップを見ると 「地震で東京、新横浜間が一次休止」と。よかった早い時間に乗って、とその時は思っていたが
帰宅してニュース見ると、相当な規模の地震であることが解った。思えばもし15日竜門で沈してたら、山形から
まともに帰れなかったであったし、もっと言えば山の中で何らかの障害が発生していれば、それこそ大変な目に遭遇
していたかもしれない。天気良くなかった山行であったが、まともに帰れたことを素直に喜ぶべきと、ニュース見ながら
夏空の大阪でスーパードライを喉に通すのであった。

古寺山から見た小朝日岳

大朝日山頂

岳氏(左)と小原庄助氏(右)

寒江山山頂のコールマン