−姉川古戦場−

1570年、信長・家康の義兄弟コンビが姉川で浅井・朝倉軍に大勝!

1570年4月の金ヶ崎の戦の際、妹お市の方の
夫、浅井長政の裏切りで窮地に陥った信長は
この恨みを忘れていなかったのです。2ヶ月後
の6月、信長は長政の裏切りに報復すべく、三
河の徳川家康と共に出兵。当初長政の居城で
ある小谷城を攻める予定でしたが、直前で侵
攻路を変更し、小谷城の支城で、北国街道に
近い横山城を包囲しました。これは、信長一流
の作戦で、長政を小谷城から引きずり出す事
が最大の目的でした。横山城を見殺しにできな
い長政は罠と知りつつも小谷城を出て、事前に
援軍を依頼していた朝倉軍と合流。1万8千の
軍を率いて領内を流れる姉川に布陣しました。
対する信長軍は2万3千人で、これに徳川軍の
6千人を合わせて約3万という大兵力で対峙し
ました。
この戦闘は午前5時頃に始まり数刻にわたり
激戦となりました。一時は信長の本陣まで迫る
勢いを見せた浅井軍でしたが、家康軍の奮闘
で朝倉軍が切り崩され、次いで浅井氏も総崩
れになり、ついに無念の撤退を余儀なくされた
のでした。浅井・朝倉軍の戦死者約1,100人。
今も血原(ちはら)の地名が残るほど多数の死
者をだす激戦は午後2時頃終わったそうです。

最も激しい戦いの場となったのが、野村橋一帯
で、橋北詰めに姉川戦死者の碑が立てられて
います。旧北国街道を行くと、土手に大きく「姉
川合戦跡」の案内看板の文字が見えます。
上2枚の写真は野村橋から撮った現在の姉川
です。約420年前の昔には屍の山を築いた場
所も今では、ご覧の通り、心なごむようなのど
かな風景です。
何にもない所でしたが、土手に大きな「姉川合
戦跡」の案内看板があるそばに小さな小さな公
園がありました。そこに左のような各軍配陣図
や戦死者の石碑がありました。

私達はその配陣図を見ながら、「あっちが浅井
・朝倉軍」「こっち側が信長・家康軍」などと指示
しながら、当時の合戦の様子に思いをはせて
いました。
この戦いに信長・家康軍は大勝しましたが、浅
井・朝倉両家を滅亡させたわけではなかったの
です。このツメの甘さが、後に浅井・朝倉家に
より強力な反信長ネットワークを形成させること
になります。

木下秀吉はこの合戦では大した活躍はしてい
ませんが、近江から越前に通じる要路を扼する
横山城が信長の手に入ったので、秀吉は横山
城の守備を命じられ、宿命の対決に備えること
となったのです。