−金ヶ崎城跡−

1570年4月、朝倉氏を攻めた信長が浅井氏の翻意によって挟み撃ちにあい、
秀吉をこの地に残して命からがら撤退した場所

1567年、信長は妹お市を近江小谷城主浅井長
政のもとへ嫁がせました。京をめざす信長にと
って、その道筋である近江は重要な国だったの
です。これによって浅井氏との同盟を結ぶこと
ができた信長は、1568年、足利義昭を奉じて
入京を果たし、お市と長政も幸せな日々を送っ
ていました。ところが…
1570年信長は将軍義昭の意を奉じて近畿・近
国の21ヶ国に及ぶ諸大名・諸将に対し、上洛し
て朝廷と幕府に礼参することを命ずる触状を送
りました。しかし、再三の信長の上洛催促にも
関わらず、越前の朝倉義景は上洛しませんで
した。そこで信長は4月大軍を率いて敦賀に攻
めこみ、秀吉も従軍しました。手筒山城攻撃で
も秀吉は軍功をあげ、金ヶ崎城にこもる朝倉義
景を降参させるについても使者の役目を果たす
等抜群の働きをしました。かくして信長は全軍
を一挙に越前に乱入させる態勢を整えたので
すが、ここに思わぬ事態が勃発します。妹婿の
浅井長政の離反です。はじめ信長は、浅井が
叛くわけない、虚報にちがいないと思ったそう
です。ですが、この時信長の元に陣中でのお
菓子にと、お市から小豆が届けられました。小
豆を入れた袋は両端を縄で括られていました。
それは「兄上は袋の中の小豆のように、浅井と
朝倉に挟み撃ちにされようとしています!」とい
う、お市の懸命のサインだったのです。お市の
意図を読み取った信長は、即座に金ヶ崎を撤
退する事にしました。いちどは降伏した朝倉勢
も信長追撃の構えをとります。この時、金ヶ崎を
あくまでも死守する殿(しんがり)の役目が決定
的な鍵を握るのですが、この大役を任ぜられた
のが秀吉でした。秀吉は踏ん張って朝倉勢を
防ぎとめ、主君信長のほうほうの態の帰京を助
けたのです。信長はこの時の、秀吉の捨て身
の殿軍に深く感謝したそうです。

金ヶ崎宮の横手奥に「金崎城跡」の碑がたって
います。その横からず〜っと山を登っていくと「
金崎古戦場跡」の碑や「織田軍米倉跡」等があ
りました。急な山道でシャレにならん位しんど
かったぁ〜!右の写真はその山道を登りつめ
た所から撮った敦賀湾です。信長や秀吉もここ
から同じ景色を眺めたのでしょうか。